“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第2話
荒野に哭く虎のように
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/02(初稿)
2004/10(改訂)
2005/03(改題・改訂)


1.やってきた女(ひと) 5.ただ一つの枷
2.どうして別れたんですか? 6.失った牙と、血に染めた爪と
3.残されるということ 7.虎の約束
4.背を向けるということ 【番外編】腕の中の、帰るべき場所
〔執筆者あとがき〕


1.やってきた女(ひと)

「――それでは。冒険の成功を祝って……乾杯!」
スラーヴァの音頭のもと、五つのグラスが重なり澄んだ音を立てる。
ここは、彼らが宿を取っている『涼風亭』一階の酒場。時刻は夜――狭い店内は既に満席であった。
地元の客や旅人たちで賑わう中、テーブルを囲むメンバーの表情は一様に明るい。

先程、五人は冒険者ギルドから戻ってきたところである。
ザガン地方の洞窟から水を汲んでくるという試験を終え、その報告と審査があったためだ。
色々とあって時間はかかったものの、スラーヴァたちは誰一人欠けることなく与えられた課題をクリアしている。当然、結果は合格であった。
パーティ名の申請も同時に済ませ、これで“手探りで進む者たち”は名実ともに一人前の冒険者と認められたことになる。

「ぷはー、酒が旨い。生き返るぜ」
一気に酒を飲み干し、空のグラスをテーブルに置きながらシローは大きく息を吐いた。
給仕を掴まえて二杯目を注文し、椅子の背もたれに身を預ける。心地良く酒が回っていく中、誰かが肩を強く叩いてきた。
「シローさぁん。い〜ぃ、飲みっぷりれすねぇ〜」
続いて、キャロラインの甲高い笑い声が響く。
「でもぉ……ちょ〜っとおじさんくさいんじゃないれすかぁ〜?」
ぎょっとして振り向くと、彼女の顔は真っ赤だった。しっかり握ったグラスの中身は、まだほとんど減っていないにも関わらず。
思わず顔を顰めるシローに、キャロラインはグラスを持ち上げてにんまり笑った。
「変な顔して、どうしたんれすかぁ? んなことより、もっと飲みましょうよぉ〜」
完璧に、呂律が回っていない。
「キャロラインちゃん、大丈夫ですかぁ?」
ローラが自分のグラスにワインを注ぎつつ、心配そうに問う。
彼女は既に瓶を二本ほど空けていたが、その様子に目立った変化は見られない――これはこれで、恐ろしいものがあるが。
内心で頭を抱えるシローをよそに、キャロラインは相変らずけらけらと笑っていた。
「らぁいじょうぶよぅ〜、酔っ払ってらんかいないんらからぁ。それぇ、私にもくれるぅ?」
そう言って彼女がワインに手を伸ばしかけるのを、慌てて制する。
「いや、これはオサフネ兄さんが預かっておいてやろう。
 ……うん、それがいい、そうしよう」
瓶を取り上げると、キャロラインは途端に頬を膨らませた。
「何をするんれすかぁ? もしかしてぇ〜、横取りする気れすねぇ?
 ずるいれすよぉ、シローさぁん」
不機嫌そうに目が据わっているのが、ちょっと怖い。嫌な予感がひしひしと身に迫ってくる。
「……俺は大事な用を思い出した。ローラ、後任せたぞ」
シローは自分のグラスを手に席を立とうとしたが、その判断はどうやら遅すぎたようだ。
「どこに行くんれすかぁ? 逃がしませんよぉ〜」
キャロラインが片腕をしっかりと掴み、こちらをじっと睨んでいる。
退路が断たれたことを悟り、シローは天を仰いで嘆息した。


「ちったあ静かにできねえのかよ……まったく」
喧騒の中、呆れ顔で呟くヴィヴィオ。
軽く食事をつまみつつ、グラスの酒をちびちびやっている。元々があまり強い方ではないので、一度に飲めないのだ。ちなみに、大陸では未成年の飲酒は特に禁じられていない。
同じく様子を眺めていたスラーヴァが、グラスをゆっくり傾けながら口を開く。
「でも、こんな賑やかなのも悪くないさ」
「まあ、な――」
溜め息混じりに答えたあと、ヴィヴィオはスラーヴァに顔を向けて動きを止めた。
穏やかに微笑むその顔が、何故だかとても寂しげに思えたからだ。
ただの気のせいかもしれない。でも、彼は出会った頃から時折こういう表情を見せることがある。
思えば、スラーヴァにはどこか謎めいた部分が多かった。いつも真面目で、誰にでも優しいのだが、なかなか自分自身のことは語ろうとしない。
おまけに、中性的で繊細な顔立ちをしているときている。一番付き合いの長いヴィヴィオでさえ、未だに男か女かわからないくらいだ――本人は男として振舞っているので、こちらもそれに合わせてはいるが。
「どうかしたかい?」
スラーヴァに声をかけられ、ふと我に返る。見ると、もういつもの彼に戻っていた。
慌てて、微妙に目を逸らす。
「いや、別に……」
ヴィヴィオが再び食事へと手を伸ばした時、テーブルの向かい側から助けを呼ぶシローの声が聞こえてきた。
「お前たち、二人だけ安全な場所にいるなんてずるいぞ。
 ……頼む、この酒癖の悪い女どもを何とかしてくれ」


翌朝。いつもの時間に目が覚めたローラは、起き上がると同時に軽く伸びをした。
旅の疲れもすっかり取れ、窓からカーテン越しに射す朝日が何とも清々しい。
ふと隣のベッドを覗きこむと、キャロラインが真っ青な顔で眠っている。
昨夜さんざんはしゃいだ後、気持ちが悪いと言って倒れてしまったのだ。
それほど飲んでいたようにも見えなかったのだが、あの酔い方からすると妥当な結果だろう。
どうやら、彼女には酒に対する耐性がまったく欠けているらしい――あらゆる意味で。
一方のローラはワインを一人で五本空けたものの、至って快調である。
実家にいた頃は家族全員がそうであったから、彼女にとって特に不思議なことではない。むしろ、他のメンバーがあまりに飲まないので驚いたくらいだ。旅に出てからというもの、色々と新しい発見が多い。
キャロラインを起こすのも憚られたので、ローラは軽く身支度を整えると一人で階下へと向かった。
一階の酒場は宿の食堂をも兼ねており、この時間も朝食を取る人々で席はそれなりに埋まっている。
いつものテーブルに行くと、そこには既に三人の仲間の姿があった。
「おはようございますぅ」
「おはよう。キャロラインはどうだい?」
朝の挨拶を交わしつつ、スラーヴァが気遣わしげな顔を向けてくる。
「ん〜、まだダメみたいですねぇ。
 少しぃ、あのまま休ませてあげた方がいいと思いますぅ」
ローラがそう答えると、シローが横から口を挟んだ。
「お前はどうなんだ?」
「ふえ? わたし……ですかぁ?」
きょとんとした表情で、首を傾げる。
この通り、自分はすこぶる元気だ。何を訊かれているのかが、いまいちよくわからない。
そのままの姿勢で固まっているローラを見て、シローが短く溜め息をつく。
「……訊いた俺が馬鹿だった、忘れろ」
「――シロー、お前に客だぞ」
彼が頭を抱えた時、カウンターの向こうから宿の主人が呼ぶ声が聞こえた。
この『涼風亭』を経営しているのは三十歳台の夫婦で、ともに冒険者であったらしい。
二人とも面倒見の良い性格で、何かと後輩たちのために気を配ってくれる。安価で宿を提供しているのも、その一環であると聞いた。
ローラたちのような駆け出しの冒険者にも気安く接してくれるので、滞在して一月余りが過ぎた今ではすっかり顔馴染みになっている。
「――ん? 客?」
こんな朝から訪ねてくる客とは、一体誰なのだろうか。
シローも心当たりはないらしく、訝った様子で視線をカウンターの方へと向ける。
瞬間、彼の表情がたちまち凍りついた。
「――リンファン」
ややあって、呻くように呟きを漏らす。
ただならぬ雰囲気にローラが振り返ると、一人の女性がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
ややウェーブのかかった短めの茶髪に、切れ長の黒い目――年の頃は、二十歳を過ぎたあたりだろうか。丈の長い異国風のワンピースを纏っており、横のスリットからほっそりとした脚をのぞかせている。
彼女――リンファンはシローの前に立つと、固い口調で彼に語りかけた。
「お久しぶり、シロー」
美麗な面に強い意志を湛えて、黙りこんでしまったシローを真っ直ぐ見据える。
「……あなたみたいな人でも、一緒に暮らした女の名前くらいは覚えていたのね」
皮肉げに発せられたその言葉が、ローラの思考を一瞬止めた。
「一緒に、暮らした……?」
声に出して反芻した後、ようやくその意味を飲み込む。
――それは、いわゆる“同棲”ということではないだろうか?
入れ替わりに、驚愕がローラの意識を飲みこんでいく――つまり、彼女は。
「シローさんのぉ、恋人さん……? ふえ? ……えええ!?」
思わず大声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。
視界の隅に、ぽかんとした表情で椅子からずり落ちていくヴィヴィオの姿が映った。

2.どうして別れたんですか?

しばらくの間、誰一人として口を開こうとしなかった。
当事者であるシローとリンファンは無言で睨み合いを続けていたし、他の三人は呆然とそれを見守る事しかできなかったからだ。
二人の顔を交互に眺めるローラの胸中は、未だに激しい混乱が渦を巻いている。
考えてみれば、シローも二十四歳の男だ。浮いた話の一つや二つあっても不自然ではないのだが――それにしても、意外過ぎる。
こう言っては失礼かもしれないが、普通に恋愛している姿が想像できないのだ。
普段の彼の様子からは、男女の機微に通じるような細やかさを持ち合わせているようにはとても見えない。
ローラも十五歳にして初恋もまだ、という奥手な少女に過ぎないのだが、そんな彼女の抱いた感想はそのまま仲間たちの感想でもあったようだ。スラーヴァやヴィヴィオも、ローラと同様に驚愕で固まってしまっている。
おそらくは、こんな展開など誰も想像すらしていなかったに違いない。

異様に張り詰めた空気の中、背後から気の抜けたキャロラインの声がのんびりと響いた。
「……おはよう。う〜、頭痛いよ〜……」
まだ酒の影響が強く残っているのか、顔色がいつにも増して白い。
おぼつかない足元でテーブルにつこうとした彼女だったが、そこで異状を察したように動きを止めた。
周囲を見渡し、訝しげに首を傾げる。
「……?」
「ええとぉ……そのですねぇ」
ローラが慌てて説明をしようとした時、リンファンが沈黙を破って口を開いた。
「何とか言ったら? ――それとも、今さら話すことなんて無い?」
「……もう終わったはずだろ」
目を逸らし、淡々と答えるシロー。彼の表情は、どこか苦いものを堪えているようでもあった。態度に、いつもの勢いがまったく感じられない。
対するリンファンは、瞬き一つせずにシローを真っ直ぐ見据えている。
「――あの人は?」
そんな彼女を指して、キャロラインが小声でローラに問いかけた。
「シローさんのぉ……恋人さん、らしいですぅ……」
一瞬口篭った後、可能な限りさりげなく言葉を紡ぐ。
予想通り、キャロラインの顔にもたちまち驚きの色が広がっていった。
「……ええ!?」
目を丸くしてリンファンを凝視する彼女の視線を追い、ローラもそちらに注意を戻す。
はっきりと形の整った眉を僅かに歪め、リンファンが再び口を開いていた。
「終わった? ……ええ、あなたにとってはそうなんでしょうね。
 でも……それって随分と自分に都合が良過ぎるんじゃない?」
かつての恋人たちの、緊迫した言葉の応酬。その一方が、次第に熱を帯びていくのがわかる。
周囲のテーブルについていた客も、何の騒ぎかと横目で様子を窺い始めていた。
そんな喧騒の中、ただ一人シローだけが動かない。腕組みしたまま、貝のように口を噤んでしまっている。
「……」
押し黙る彼に、リンファンは挑むような口調で言葉を浴びせていった。
「あんな置手紙一つで、残された方が納得できると本気で思うの?
 三年前、あなたが消えたあの日から、私がどんな思いでいたか――それがわかる!?」
痛みと絶望が言葉の刃と化して口から発せられると同時に、リンファンが苦しげに目を伏せる。
何気なくシローに視線を移したローラは、彼が大きく息を呑みこむのを見た。
漆黒の瞳が揺らぎ、後悔しているような、それでいて何かを恐れているような暗い光が浮かぶ。
――こんなにも脆い表情を、シローが見せたことがあっただろうか?

驚くローラをよそに、リンファンの愁訴はなおも続いていた。
「せめて、理由を教えてよ……。このままじゃ、私……」
「聞きたいか?」
遮るように、シローの低い声が重い響きをもって発せられる。
リンファンが弾かれたように顔を上げた時には、先程の無防備な表情はもう跡形もなかった。
代わりに、口元に意地の悪い笑みを浮かべてこう言い放つ。
「他に好きな女ができたんだ、簡単だろ」
「……嘘」
呟いたきり立ち尽くすリンファンを横目に、シローはおもむろに席を立って踵を返した。
「なら――今から証拠を見せてやる」
言うが早いが、隣にいたスラーヴァの腕を掴む。
彼が抵抗する間もなく、シローはその身体をしっかり抱き締めていた。
「――っ!?」
あまりに衝撃的な光景を前に、周囲の空気が一瞬にして凍りつく。
当のスラーヴァなど、すっかり顔色を失ってしまっていた。その肩が微かに震えているように見えるのは気のせいだろうか。
しかし、元々が繊細な美貌をもつ彼のこと。事情を知らない人間が見れば、それはそれで儚げな美女と映るかもしれない。
「シロー……腕を、離してくれ……」
「俺だって嫌なんだ、耐えろ」
腕の中でか細い声を絞り出すスラーヴァに理不尽な囁きを返すと、シローは彼を抱いたままリンファンの方へと向き直った。あたかも、彼女に見せつけるが如く。
一方のリンファンは、口唇を強く噛み締めて全身を震わせている。
握り締められた両の拳が、あまりにも痛々しい。
おそらくは、彼女もスラーヴァを女性と認識してしまったのだろう。
輝くような短めの銀髪、愁いを帯びた紫紺の双眸、清楚な顔立ちに華奢な体型。
男性とさえ思わなければ、その美しさは女の嫉妬心を煽るに充分な威力があった筈だ。
「そう……よくわかった……」
全ての感情を押し殺すように、低く呟きを漏らすリンファン。
「待って下さい。俺は……」
ようやく腕の中から脱出を果たしたスラーヴァが慌てて口を開くが、その上にシローの声が冷然と重ねられる。
「そうか、それは話が早い」
「シロー!」
スラーヴァが咎めても、彼はまったく反応を示さない。それどころか、リンファンを見ようともせずに顔を背けてしまっている。
そんなシローを、激情を湛えた視線が真っ直ぐに射抜いた。
既に潤んでいた漆黒の双眸から涙が溢れ、悲痛な嘆きが空を打つ。
「この三年間……長かった……!
 行方知れずのまま、生きているのか死んでいるのかもわからない
 あなたをずっと待ち続けて……壊れてしまいそうだった……。
 無事だってやっとわかった時には――凄く、嬉しかったのに!」
置き去りにされた憂愁が切々と胸に迫り、もはや聞いているのが辛いほどだ。
ローラは祈るような思いでシローを見たが、続いて彼の口から発せられたのはどこまでも残酷な一言だった。
「……待てなんて、俺は言わなかったはずだ」
感情の篭らない声で短く、そう言い捨てる。
涙に濡れたリンファンの顔が、さらに血の気を失い蒼白となる――もう、気の毒で見ていられない。
「そんな事――わざわざ言われなくてもわかってるわ!!
 私はただ、あんな形で終わりたくなかっただけよ!」
彼女の血を吐くような叫びが空気を震わせた時、ぱぁん、と大きな音が響いた。

「――シローさんの馬鹿っ!」

シローの頬を打った手をそのままに、怒りに顔を紅潮させたキャロラインが怒鳴る。
遠巻きに無責任な囁きを交わしていた野次馬たちが一瞬にして静まり返ったが、当のシローは身じろぎ一つしない。
それを見て、キャロラインの潤んだ瞳がさらに大きく揺らぐ。
「そんな人だと……思わなかった……!」
大粒の涙とともに失望の呟きが彼女の口から漏れた時、リンファンが耐え切れなくなったように身を翻すのが見えた。
「……あ!?」
酒場を飛び出したリンファンを追い、キャロラインがすぐさま駆け出していく。ローラもまた、その後に続いた。方向音痴のキャロラインを一人にはできないし、何よりリンファンをあのまま放っておけるはずもない。
ローラは走りざま一瞬だけシローを振り返ったが、彼は横を向いたまま動こうとしなかった。

   
「……待って! 待ってください!」
酒場を出てすぐ、キャロラインが走りながらリンファンに呼びかけていた。
まだ午前中とはいえ、通りを行き交う人の数は多い。この喧騒の中では、声を張り上げてもなかなか彼女のもとには届かないようだ。
ローラもキャロラインもここの出身ではなく、いまいち土地勘が薄い。見失わないようにするのが精一杯で、なかなか距離を詰めることができなかった。
人込みを掻き分け、ひたすら前に進むことしばし。
やっとリンファンのもとへ辿り着いた時には、二人ともすっかり息が上がってしまっていた。
「はぁ、はぁ……やっと、追いついた……」
乱れた呼吸を整える二人を、リンファンが驚いたように見つめる。
「あなたたちは……」
キャロラインはもう一度大きく深呼吸した後、少し間をおいてゆっくりと口を開いた。
「キャロラインです。シローさんとは、パーティを組ませてもらっています」
合わせて、ローラも慌ててお辞儀をする。
「ローラ・レイ・ウインフレアですぅ。シローさんには、いつもお世話になってますぅ」
簡単な自己紹介とともに顔を上げた時、寂しげに目を伏せるリンファンの姿が映った。
「そう、シローの……」
呟きながら、ほんの僅かな嫉妬の入り混じった視線をこちらに向ける。
それを振り払うが如く首を横に振ると、リンファンは微笑とともにローラたちへと語りかけた。
「私はリンファン・フェイ・ルース、よろしくね。
 ……と言っても、もうあの人とは何の関係もない人間だけれど」
さりげなく装った口調が、余計に胸に痛い。
それを見て、ローラもおずおずと声をかけていく。
「あのぅ……」
事情はまったくわからないが、おそらくは部外者が首を突っ込んで良い問題ではないだろう。
それでも、目の前で苦しんでいる人を見て黙ってはいられない。
例え要らぬお節介に過ぎなくとも、誤解だけは最低限解いておくべきだろう。
意を決し、ローラは話を切り出した。
「そのぉ……好きな女の人ができたってぇ……嘘だと思いますぅ。
 さっきシローさんが抱きついたのは本当は男の人でぇ……」
実際のところ、ローラにはスラーヴァが本当に男性であるかどうかはわからない。
むしろ、男装をした女性という可能性の方が大きいのではないかという気もする。
しかし、少なくともシローは彼を男性と疑ってはいなかったし、出会ってからずっと同性として接してきている。
性別の真偽はともかく、スラーヴァがシローにとって恋愛対象になるとは到底考えにくい。
おそらく間違いはないはずだが――問題は、そんな複雑な事情を如何にして伝えるかだ。
しどろもどろになりながらも必死に言葉を選んでいると、当のリンファンがやんわりとそれを遮った。
「ありがとう。……でも、いいの」
「……ふえ?」
思わず目を丸くするローラの呟きに、リンファンが自嘲の色を帯びた微苦笑で答える。
「彼が嘘をついていることはわかってた。こんな私でもね。
 知ってる? あの人ね、嘘をつく時は必ず目を左の方に逸らすの」
ローラはキャロラインと顔を見合わせたが、彼女は首を軽く横に振るばかりだった。
シローと知り合って一月余り――ローラも、まだ彼の細かな癖まで覚えるには至っていない。
いや、単純に時間の問題だけではないだろう。自分たちとリンファンでは、そもそもシローを見る目が違うのだ。たとえ同じだけの時間を過ごしたとしても、リンファンは誰よりも深く彼を理解できるに違いない。そんな気がする。
――でも、だとするならば。
「じゃあ……どうしてあの時に言わなかったんですか?」
ローラの胸中に浮かんだ疑問が、そのままキャロラインの口をついて出る。
あれがシローの本心でないとわかっているならば、さらに彼を問い詰めることもできたはずだ。
リンファンは小さく嘆息すると、再び目を伏せてぽつりと口を開いた。
「どちらにしても……もう、彼の心は私に向いていないもの。
 それが、はっきりわかってしまったから」
搾り出した声とともに、その表情が諦観と憂愁に沈む。
「そんな……」
あまりの痛ましさに、もはやかける言葉もない。
そんな時、リンファンが儚げに微笑んでローラたちを見た。
「悪いけれど、少しだけ付き合ってくれる? 誰かと、話をしたい気分なの」

3.残されるということ

小高い丘の上を、清々しい冷たさを孕んだ風が通り過ぎていく。
既に暦の上では十二月となっていたが、日中は凍えるほど寒くなることはない。数多の精霊たちの加護を強く受けているこの大陸では、一年を通して過ごしやすい気候を保っている地域も多いのだ。
フロースパーの街並みを一望することができる丘の頂上には、小さなベンチも置かれていた。
地元に住む人々が散歩に立ち寄るような憩いの場所となっており、中心部の喧騒が嘘のように心地よい静寂が辺りを包んでいる。
穏やかな時間が流れる中、三人はベンチに並んで腰掛けていた。

「――シローはね、この街で生まれたの」
リンファンが、青い空を眺めながら口を開く。
その言葉が意外に思え、ローラは首を傾げながら彼女の顔を見た。
「ふえ、そうなんですかぁ?」

シローは髪も瞳も黒で、肌は大陸で数が多い白色系の人種に比べてやや色が濃く、顔の彫りも比較的浅い。愛用の鎧は方形の金属片を紐で繋ぎ合わせたような変わったもので、これも一般的に馴染みのあるものではなく、別の文化圏の出身であることを連想させる。
そんな彼の故郷がフロースパーだといきなり言われても、どうしても違和感が拭えない。

「てっきりぃ、アクラシエルの方から来たんだと思ってましたぁ」

大陸南方に位置するアクラシエル地方には、特殊な文化を持つ民族が住む集落がどこかにあるという話をローラは聞いた事があった。
何でも、そこの住人は皆ゆったりとした長い裾の衣装を着ており、男性は頭の上で髪を束ね纏めているらしい。それ自体が意味を持つ複雑な文字を使いこなし、魔法とも異なる不可思議な術を操るとの噂まである。
そういった、独特の謎めいたイメージがシローにすんなり結びつけることができたので、ローラは勝手にそう思いこんでしまっていたのだ。
実際は誤解だったわけだが、普段彼は自分のことをほとんど語らないのだから、これは間違えても仕方ないと言えるだろう。

目を丸くしながら考えを巡らせるローラに、リンファンがくすりと微笑いながら答える。
「元々はそちらの流れを汲む一族だったのだけれど、ご両親の代になって
 こちらに出てきたみたい。今は、ここに家を構えているって聞いたわ」
それを聞き、ローラもようやく納得した。
件の集落そのものは閉ざされており公にはされていないものの、そこから出てくる人間は意外に多いと習った事があるからだ。混血も進んでおり、一見そうとは思えないような者でも姓や名に先祖の名残があったりする。彼らの名前は大抵母音が多いので、区別するのは難しくない。
故郷に住んでいた頃に兄の家庭教師をしていた男性も、その子孫だった。ローラの知識は、ほとんど彼から教わったものだ。

「……でも、家があるのにどうして宿にいるんだろう?」
不思議そうに、キャロラインがもっともな疑問を漏らす。
冒険者にとって、宿代というのは意外に負担になるものだ。
安いからと『涼風亭』へ根城を移したシローが、無料の宿ともいえる実家の存在を見逃すとも思えないのだが。
「ちょっと、事情があってね。彼の家は、希少品を扱う商人なのよ。
 “オサフネ商会”っていって、このあたりじゃ、結構繁盛しているみたい」
「商人……ですかぁ?」
これまた、随分と意外だ。
何しろ、普段垣間見るシローの金銭感覚は、まさに“丼勘定”としか呼びようのないものだったから。
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったローラを見て、リンファンは無理もない、とでも言いたげに笑みを浮かべた。
「彼はそこの長男だったんだけど……何しろあの性格でしょ。
 家業を継ぐのが嫌で、十六歳の時に家を飛び出しちゃったんだって。
 あの様子だと、未だに帰っていないんじゃないかな」
「……何となく納得かも」
「ですねぇ」
キャロラインを顔を見合わせると同時に、本音が出てしまう。
直情、大雑把、短気、無愛想――これほど交渉ごとに向かない男も珍しい。
商人になるなど、考えるだけで嫌になってしまうだろう。
ただ、シローには悪いが家にとってもその方が良かったのではないかという気もする。
「ご両親がフロースパーに店を構えるようになったのは割と後になってからで、
 それまでは行商が主だったらしいの。
 シローは子供の時から、ご両親について各地を回っていたみたい」
「それでぇ、旅に慣れてるんですねぇ」
先日の冒険を思い返し、ローラは一人頷く。
街道の様子に詳しかったり、野営に適した場所をさりげなく助言してくれたりと、シローの存在は駆け出しのパーティにとって大いに助けになっていたのだ。
ローラも野外生活においての心得は最低限身に着けていたが、やはり書物で得た知識が実践で鍛えたそれに敵うはずもない。変化する状況に合わせて的確な判断を行えるようになるには、実際の旅の中で学ぶ他はないのだと、彼女は今回嫌というほど思い知らされた。
そういう意味では、経験豊富なシローは尊敬すべき存在である。
「家を出てからは、ほとんど一人で旅をしていたらしいわ。
 剣だけを頼りに大陸中を駆け巡って……
 私が彼に出会ったのも、そのくらいの時期だった」
遠くへと視線を向け、過去を懐かしむようにゆっくりと目を細めるリンファン。

「昔からぶっきらぼうで、言葉も足りなくて、やることなすことデタラメで……
 それでいて、変に筋を通したがったり、時々驚くほど優しくなったりしてね。
 気付いた時には、彼のことを好きになっていたわ。
 一緒に暮らしたのはほんの半年くらいだったけれど、あの頃は幸せだった」
シローを語るリンファンは本当に幸福そうで、彼に寄せている思いの大きさを窺い知ることができた。
だからこそ、ローラは思わずにいられない。
――何故シローは、彼女と別れてしまったのだろう?
湧き上がったその疑問が、思わず口をついて出てしまった。
「……じゃあ、どうしてぇ……」
「わからない」
悲しげに首を横に振るリンファンを見て、後悔がよぎる。誰よりも、それを知りたいのは彼女自身であるだろうから。
「ある日突然、シローはいなくなってしまったの。たった一通の手紙だけを残してね」
「手紙には、何て……?」
遠慮がちにキャロラインが訊くと、リンファンは小さな溜息とともに、一言一句なぞるが如く暗唱した。
「――俺は旅に出ることにした。もう会うこともないだろうが、元気で――」
手紙と呼ぶにはあまりに短すぎる文面。
その素っ気無さに、ローラは一気に声を失った。
これだけで、人の思いを断ち切ることなど到底できるはずがないではないか。
かける言葉もないローラをよそに、リンファンが諦めたように儚く微笑む。
「結局、私の独りよがりだったのかな。彼にとっては遊びでしかなかったのよ、きっと。
 そうとも知らず三年も待ち続けて……馬鹿みたいね」
彼女が自嘲を込めてそう囁いた時、キャロラインが言葉を返した。
「本気で……そう思っているんですか?」
「……え?」
目を大きく見開き、キャロラインに顔を向けるリンファン。
キャロラインは彼女を真っ直ぐ見つめ、逆に問いかけるように続けた。
「シローさんがそんなことをできる人じゃないって、リンファンさんならわかるはずです。
 そう信じていたから、三年も待てたんじゃないんですか?」
「それは……」
リンファンが言葉を詰まらせると、キャロラインは少し俯いて遠慮がちに言った。
「私、まだシローさんと知り合ってから一月くらいしか経っていませんけど。
 最初は……その……正直、怖い人だと思ってました」
「キャロラインちゃん……」
その時の様子は、ローラもまだ記憶に新しい。
もともと男性が苦手だったらしいキャロラインは、粗野で我の強いシローの性格になかなか馴染むことができずに悩んでいたのだ。
「でも、気付いたんです。確かにいつも不真面目で乱暴に見えるけど……
 心の中では、色々なことを真剣に考えてくれているんだなって。
 私も……助けてもらいましたから……」
キャロラインは言っていた。
あの洞窟の冒険で、シローは自らを盾にしてキャロラインを救った。
その時に、今まで見えなかった彼の優しさと心遣いに触れることができたのだと。
フロースパーへ帰る途中、こっそりローラに打ち明けてくれた。
「だから……きっと、何か大きな理由があるんだと思います。
 それがどんなものかは、わかりませんけど……」
「……」
「あのぅ……」
口唇を噛んで黙りこんでしまったままのリンファンを見て、ローラも意を決して口を挟む。
「……わたしぃ、見たんですぅ。
 ほんの、一瞬だけですけどぉ……シローさん、凄く辛そうな顔してましたぁ。
 本当にどうでもいいならぁ、あんな表情するはずがないですぅ……」
その言葉に、リンファンの表情がさらに揺らいだ。
諦観と未練、溢れる思慕の情と疑念――そして、一抹の希望。
漆黒の瞳に、さまざまな思いが交錯するのが痛いほど見て取れる。
これからどうするべきか、進む道を必死で探しているのだろう。
「私は……」
彼女が口を開きかけた時、背後から突如ダミ声が響いた。

「――よう、嬢ちゃん。また会ったなぁ」
「!? あなたたちは……!」
振り返って声の主を見たキャロラインが、慄いたように叫ぶ。
いつの間に忍び寄ったのか、ベンチの後ろには強面の男たちが四人、並んで立っていた。
それぞれ冒険者風の装備に身を固めており、その風体はまるで揃えたが如く似通っている。くたびれた革鎧と腰に帯びた武器が、ここの和やかな風景にまったくそぐわない。
彼らの顔には、ローラも見覚えがあった。
仲間たちと初めて出会った時に、キャロラインにからんでいた街のゴロツキたちだ。
シローたちによって撃退され、自警団に引き渡された筈だったが……。
身体を強張らせるローラたちを見て、男の一人が口を開く。
「話は聞かせてもらったぜぇ。
 この姉ちゃん、あのシローとかいう奴の女なんだってなぁ?」
そのまま、彼はリンファンの腕を無造作に掴んだ。
「な……離して!」
嫌悪感も露に叫ぶ彼女に構わず、男は満面に嫌らしい笑みを浮かべる。
「悪ぃが一緒に来てもらうぜ。何せ、あいつには借りがあるからよぉ」
一ヶ月前、四人の男たちはその殆どがシローの手によって倒されていた。
実際はヴィヴィオの魔法による援護射撃も飛んでいたのだが、小柄な彼の姿は人込みに紛れて男たちの目には入っていなかった筈だ。
これでは、彼らの恨みの矛先がシロー一人に集中するのも無理からぬ話だろう。
特に、リンファンの腕を掴んでいる男は、丸腰のシローに顔面を殴られて失神するという醜態を晒している。やられっぱなしのまま引き下がれるわけがない。
もっとも、その下らない矜持を満足させるため、さらに下劣な手段を用いようとしているわけだが。
リンファンは男から逃れようと必死に抗っていたが、所詮は女の細腕である。
鍛えた男の力に敵うはずもなく、逆にますます強く押さえこまれてしまった。
「何、変に暴れなきゃあ悪いようにはしねぇよ。俺たちも鬼じゃねえからなぁ」
「そうそう。痛い目はみたくねえだろう? 綺麗な顔に傷がついたら勿体ねぇしな」
舐めるように好色な目を向けてくる男たちに、リンファンが顔を引きつらせる。
彼女の動きが止まると、男は次にローラたちを見て言った。
「――嬢ちゃんたち、帰って奴に伝えろ。
 『お前の女は預かった。一人で街外れの廃屋まで来い』ってなぁ」
助けようにも、下手に手出しをすればリンファンの身が危ない。
結局なす術がなく、ローラたちの眼前で彼女は連れ去られてしまった。
ややあって、キャロラインが震える声を絞り出す。
「た……大変。リンファンさんが……」
ローラは少し考えると、努めて冷静に言った。
「キャロラインちゃん、戻りましょう。シローさんに伝えないと」
まずは落ち着かなくてはいけない。この場合、とにかくシローに来てもらうのが最善の方法だろう。
万が一彼が拒否しても、それこそ首に縄をつけてでも引っ張ってくるまでだ。
二人が抱えている男女の問題はともかく、現状ではリンファンの身の安全が第一である。
「……う、うん」
キャロラインが頷くと同時に、ローラは全力で駆け出していた。

4.背を向けるということ

一方その頃、『涼風亭』では男たちが無言で卓を囲んでいた。
リンファンの登場に伴う騒動でざわついていた店内も、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。
先程までは、こちらの方を窺いながら不躾な囁きを交し合う者たちも多く、随分と辟易したものだったが……とりあえず、今はそんなことを言っている場合ではない。例えそれが、「シローが男色に走った」だの「スラーヴァはやはり女性だった」だの、スラーヴァにとって到底看過できない内容であったとしてもだ。
――同じ宿に滞在し続けている以上、どうしても常連には顔と名前を覚えられてしまうものである。

ともかく、まずはシローだ。
スラーヴァはゆっくりと深呼吸して気を鎮めた後、シローに向けて話の口火を切った。
「シロー。さっきの事なんだが……」
「あー、あれか。最初はローラかキャロラインにしようとも思ったんだが、
 そんなことをしたら後が怖いからな。すまん許せ」
早口でまくしたてるシローだったが、決してスラーヴァに目を合わせようとはしない。
軽い苛立ちとともに、さらに突っ込む。
「そういうことを言っているんじゃない。いいのか? このままで」
「何が」
短く発せられたその声は、あらゆる感情を押し殺した如く平淡に響いた。
あまりの素っ気無さに、一種の痛々しさすら覚えてしまう。
そんな彼の態度に確信を強めつつ、スラーヴァは言葉を続ける。
「だから……彼女――リンファンのことだよ」
二人の間に何が起こったのかは知らない。
他人の与り知るところではないのだろうし、そうでなくてもスラーヴァは色恋に関してはとことん疎いときている――はっきりと自覚できるほどに。
そんな自分がシローを説得できるとは思えないが、だからといって放っておくわけにもいかなかった。
「もう終わったことだからな」
スラーヴァの思いをよそに、対するシローの返事はあくまでも淡々としている。
そうすることで、彼が己の内にある苦悩を必死に隠しているように感じられるのは、果たして気のせいだろうか?
疑念が、そのまま口をついて出る。
「本当にそう考えているのか?」
その言葉に、シローが初めてスラーヴァを振り返った。
「……何が言いたい」
恫喝を込めて低く言い放つシローだったが、その瞳には僅かな動揺の色が見て取れる。
スラーヴァは、あえて彼を挑発することにした。
「下手な嘘はやめろと言っているんだ」
「……何だと」
射るような視線を向けてくるシローに怯むことなく、なおも続ける。
「本気だったんだろ? どうして、わざわざ背を向けなきゃいけない?」
「……」
眉を大きく顰めたきり、黙り込むシロー。
その沈黙を、スラーヴァは先の問いに対する肯定と解釈した。
やはり、別れることは本意ではないのだ。確信を込め、駄目押しとばかりに口を開く。
「素直になれよ。君だって、本当はまだ彼女のことが……」
「――うるせぇ!」
言い終わらないうちに、シローの怒鳴り声が空気を激しく震わせた。
店内が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。
畏怖と好奇の入り混じった視線がシローに集まる中、彼はそれに構わず席を立った。
怒気を孕んだ漆黒の瞳が、炯炯とスラーヴァを見下ろす。
「女もロクに知らないガキのくせして、生意気なんだよ……!」
「……」
その迫力に、スラーヴァは思わず言葉を詰まらせた。
シローの本心も、抱えた過去も、結局は彼独りのものなのだ。
他人が知った風な口をきくなと、その表情が何よりも雄弁に語っている。
怒りの下に垣間見える孤独な拒絶が、むしろ心に響いて痛い。
スラーヴァが目を伏せた時、テーブルの向かい側からヴィヴィオの舌打ちが聞えた。
「ち、偉そーに何言ってやがる。てめーだってガキだろーが」
「あ? 誰に向かってそんな口きいてんだ?」
凄みをきかせるシローに、ヴィヴィオは真っ向から迎え撃つが如く噛みついていく。
「てめー以外誰がいるよ? 大体なあ、ガキと言われて怒る奴はガキなんだよ!」
「ガキだガキだと連呼するんじゃねえ、このクソガキが!」
シローがテーブルを叩いて身を乗り出したのを見て、スラーヴァは二人の間に割って入った。
「やめろよ、二人とも」
ここで仲間同士喧嘩になっては、目も当てられない。
なおも睨み合う彼らを制しつつ、何とかシローを席につかせる。
多少落ち着きを取り戻したのを見計らって、スラーヴァは再びシローに声をかけた。
「とにかく、だ。もう一度彼女と話し合うわけにはいかないのか?」
出過ぎた真似とは充分承知の上である。でも、どうしても彼の態度が胸に引っかかるのだ。
リンファンの存在がシローの心を大きく占めているであろうことはほぼ疑いようがない――ならば何故、その思いを自らの手で断ち切らねばならないのか?
例え別れが避けられないとしても、理由すら伝えられないのはお互いにとって不幸だと、スラーヴァは思う。
シローはそんな彼を一瞥すると、呆れたように溜め息をついた。
「お前もしつこいな」
「生憎ね」
簡単に引き下がるつもりならば、そもそも首を突っ込みはしない。
スラーヴァが答えると、シローは目を伏せて低く呟いた。
「――気付くのが遅すぎたんだ」
自嘲するかの如き一言が、あまりに苦々しく響く。
「え……?」

言葉の重さにスラーヴァが思わず声を漏らしたその時、酒場の扉が開け放たれ、ローラとキャロラインが一気に駆け込んできた。
急いで走ってきたのか、二人とも激しく息を切らせている。
ただならぬ様子に、スラーヴァを始めテーブルについていた全員が席を立った。
「シローさん……大変」
「どうした、そんなに慌てて」
声をかけるシローを、キャロラインが肩で息をしながら見上げる。
次いで彼女の口から飛び出したのは、非常事態の報せだった。
「こないだの怖い男の人たちが来て……リンファンさんが連れて行かれたんです」
「何だって? まさかあの時の……」
心当たりなど、たった一つしか考えられない。スラーヴァの言葉に、キャロラインが頷く。
「シローさんに、一人で街外れの廃屋まで来いって……」
彼らの狙いは間違いなくシローだ。リンファンは、たまたま彼との関係を知られて巻き込まれたのだろう。
どちらにせよ、人質を取るような連中に道理が通用するはずもない。放っておけば、彼女にどんな危害を加えられるかわかったものではなかった。
とにかく救出に行かなければ――スラーヴァがシローを促そうとした時、彼の口から大きな舌打ちが漏れた。
「ちぃっ……!!」
席を立つが早いが、勢い良く表へと飛び出していく。
「――ふえ!?」
「シロー!」
一瞬遅れて声をかけるも、もうその時には彼の姿はどこにも見当たらない。
誰もが呆然と立ち尽くす中、苛立たしげなヴィヴィオの叫びが耳を打った。
「……だから、ガキだってーんだ!
 大体、剣も持たずにどうする気だよ――あの阿呆っ!」
「あ……!」
それを聞き、キャロラインの顔が青ざめる。
――そう。今のシローは全くの丸腰なのだ。格闘の達人でもない限り、武器を持った複数の相手と戦うには限界がある。
はやる気持ちを抑えつつ、スラーヴァは自分たちのやるべきことを必死に頭の中で組み立てていた。
「とにかく、俺たちも行こう。ローラ、場所はわかるかい?」
仲間の中で一番土地勘のあるシローがいない以上、次に頼るべきなのはローラだ。
地図職人を目指す彼女は、暇さえあれば街を歩き回って地図を描いている。
どこに何があるかということに限れば、下手な地元民より詳しいだろう。
スラーヴァの問いに、ローラは懐から愛用のメモを取り出すと、それをパラパラとめくりながら答えた。
「大丈夫だと思いますぅ。前にぃ、そのあたりは行きましたからぁ」
「じゃあ、案内を頼む」
そのまま道順の確認を始めるローラに短くそう言うと、スラーヴァもまた準備のため二階へと急いだ。

5.ただ一つの枷

フロースパーの町外れに、焼け焦げた廃墟が建ち並ぶ一角がある。
もともとは貧しい人たちが多く住んでいた区画だったが、数年前に火事でほとんどの家が燃えてしまったのだ。以来、行政の目も届かずに放置されており、治安は極めて悪い。
まともな住人は滅多に足を踏み入れようとはしない場所であったし、更地になった焼け跡は充分な広さがある。喧嘩や裏取引にはまさに打ってつけなのだ。
落ち着かずに辺りを見渡すリンファンも、ここまで来たことはなかった。
彼女の周りには、強面の男たちが六人。あれから、さらに二人増えている。
今のところ、縛られたり乱暴な扱いは受けていなかったが、こう囲まれていては逃げ出すのは到底不可能だ。かといって、待っていてシローが来るはずもない。

今頃、ローラとキャロラインは涼風亭に戻ってこの事態を告げていることだろう。
しかし、リンファンはもう彼と何の繋がりもないのだ。罠とわかって、むざむざ危険を冒す必要があるとは思えなかった。
何よりも、これ以上シローの負担になりたくはない。むしろ、彼が来ないことを祈っていた。
――しかし。
「どうやら、おいでなすったみてぇだなぁ」
「……!」
男の声に顔を上げると、確かにシローがこちらへと近づいてくるのが見えた。
場所と時間のタイミングを考えても、かなり早い。おそらく、報せを受けてすぐに出たのだろう。
「シロー……どうして……」
呆然と呟きながらも、やはり、と心のどこかで思う自分がいる。
知った人間を、むざむざ見捨てるような真似ができる男ではないのだ。例え罠だろうとも、そんなものは踏み潰してしまえばいいと言い切るに違いない。
リンファンの複雑な思いをよそに、シローは六人の男たちと対峙していた。
彼が本当に一人であることを確認して気が大きくなったのか、男たちは武器を手にニヤニヤと笑みを浮かべている。その中の一人が、一歩前に進み出て口を開いた。
「よう。この前は世話になったなぁ。あの時の借り、返させてもらうぜぇ」
「うるせぇ。とっとと女を放しやがれ」
聞く耳持たず、といった風情のシローに、男は顎でリンファンを示しながら続ける。
「まずは、武器を捨てな」
「お前ら……目が悪いのか?」
憮然と言い捨てるシローの姿は、酒場で見た時と何一つ変わってはいない。
それに気付いた時、リンファンは思わず声を上げてしまっていた。
「あ……!」
今の彼は、武器どころか鎧すら身に付けてはいなかったのだ。
これで、剣を持った複数の相手と戦うなど正気の沙汰ではない。
リンファンの顔から血の気が引くと同時に、男たちの哄笑が一斉に響いた。
「こりゃあいい、慌てて丸腰で駆けつけたってかぁ?」
「よっぽど女が大事とみえるなぁ」
「馬鹿言うな」
集中する嘲りの言葉と視線にも構わず、男たちを睥睨するシロー。
「あ?」
訝る彼らに、シローはどこまでも不敵かつ獰猛に笑んだ。
「――てめえらごとき、わざわざ剣を持ち出すまでもねえ」
言うが早いが、地面に落ちていた火掻き棒を拾い上げて先頭の男に飛びかかる。
素早く身を沈め、完全に不意を突かれた相手の鳩尾(みぞおち)へとそれを叩き込んだ。
「がっ!?」
苦鳴とともに蹲る男からすぐさま飛びのき、間合いを取って得物を構え直すシロー。
「この野郎!」
それを見て色めき立ったのか、残りの五人は次々に剣を鞘走らせると、シローを取り囲むようにじりじりと距離を詰め始めた。
対するシローはまったく怯んだ様子もなく、全身からは殺気にすら近い闘気を発散させている。
続いて、苛立たしげな怒号が全員の鼓膜を打った。
「――どいつもこいつも好き勝手言いやがって! 暴れてやるからまとめて死ねぇ!」
吼えるとともに、敵陣へと一気に突入する。
手にした火掻き棒で剣を払い、手首を打ち据え、動きが止まったところに蹴りを放つ。背後から襲いかかろうとした者には、振り向きざまに肘の一撃を食らわせていた。
武器と人数の不利をものともせず、相手の攻撃を全く寄せ付けない。一人、また一人と倒していく。
鬼神の如き戦いぶりを見せるシローの迫力に、男たちの間にも徐々に動揺が広がっていった。
さすがに旗色が悪いと悟ったのか、彼らのうち一人が慌ててリンファンの腕を掴む。
そのまま乱暴に引っ張り剣を突きつけると、男はシローに向かって精一杯凄んだ。

「ま、待て。こいつが目に入らねえのか。お前の女だろうが」
必死で恫喝しているつもりなのだろうが、声も剣を握る手も震えている。これでは、どちらが脅しているのかわからない。
既に三人目を叩きのめしていたシローは、男とリンファンを一瞥すると事もなげに答えた。
「人質の命を取るなんて話は聞いてないからな」
リンファンの背後で、男が大きく息を呑む音が聞える。
彼らには気の毒だが、相手が悪すぎる。一時はどうなることかと思ったが、この程度ならばシローは難なく切り抜けることができるだろう。
まだ剣の切っ先は自分へと向けられたままだったが、リンファンは内心で安堵の息を漏らしていた。
シローがまったく意に介していないのを見て、追い詰められた男はさらに声を張り上げる。
「……じゃ、じゃあこれならどうだ。確かに命までは取らねえが……
 か、顔に傷くらいはつけるかもしれねえぞ。それでもいいのか?」
どう考えても、苦し紛れの悪あがきにしかならない一言だ。当然、シローが今更そんな言葉に耳を貸す筈もない。
だが、しかし。続いて彼の口から飛び出したのはあまりに意外な返答だった。
「それは困る」
何と、シローはそのまま動きを止めてしまったのだ。
誰よりも、一番驚いたのは言い出した本人だったに違いない。リンファンの背後にいるため表情はわからなかったが、剣を握る手が一瞬硬直したのがはっきりと見てとれた。
それでも、男は何とか気を取り直したようだ。確認するように、恐る恐るシローへと口を開く。
「……だ、だろう? なら、その棒きれを捨てな」
「……」
シローは言われるがまま、火掻き棒を地面へと放り捨てた。
金属が土にぶつかる甲高い音が、辺りに空しく響く。
リンファンは、その様子を信じられない思いで眺めていた。
あと少しというところで、どうしてむざむざ勝利を手放すような真似をしなくてはならないのか。
無言で立ち尽くすシローの姿に、リンファンは胸を鷲掴みにされる思いだった。
――シローの真意はともあれ、彼を窮地へと追い込んだのは、他ならぬ自分に違いないのだから。

やがて、男たちも自分たちが再び優位に立ったことを認識したようだ。
先ほど倒された者たちも、顔や腕を抑えながらのろのろと剣を拾って立ち上がる。
屈辱は殺意と化し、ぎらついた三対の双眸は残忍な光を湛えてシローに向けられていた。
「……手間ぁかけさせやがって……」
「囲んで一気に殺っちまおうぜ。女は放すなよ」
言いながら、男たちが三方向からシローへと迫る。すっかり気圧されていた残りの二人も、少し遅れて後に続いた。
体捌きでかわそうとしたシローだったが、そんな彼に見せつけるように、顔に剣をぴたりと当てられたリンファンが前に押し出される。
「おっと、動くなよぉ……」
その声に、シローの動きが僅かに鈍った。好機とばかり、刃が四方から一斉に襲い掛かる。
直後、鮮血が飛沫をあげた。
「ちぃ……っ!」
目を逸らすことすらできないリンファンの前で、シローの身体に次々と傷が刻まれていく。
命中の瞬間に僅かに体制を変え、斬撃の威力を殺しているために辛うじて致命傷にはなっていないようだが、動きを封じられていてはそれも時間の問題だろう。

これ以上、愛した男が傷つくのは見たくはない。
シローの生命に比べれば、自分の顔など安いものではないか。
とうとう耐えられなくなり、リンファンは叫びだしていた。
「もうやめて! 私なら好きにすればいいでしょう!」
喚きながら、掴まれた腕を振り解こうと必死に抵抗する。
「馬鹿、やめろ!」
慌ててシローが制止したが、それくらいで挫ける覚悟は持ち合わせていない。
一向に動きを止めようとしないリンファンに、対する男もとうとう痺れを切らしてしまった。
「――この女! 大人しくしねえと……」
振り上げられた腕に思わず身を竦ませた時、少年の声が高らかに響いた。

「――焼き尽くせ! 『レヴァンテイン』!」

呪文とともに、無数の火花がリンファンを捕らえていた男の顔面へと降り注ぐ。
「熱ぃ!!」
男が堪らず顔を抑えた隙に、リンファンは何とか腕を振り解くことができた。
急いで距離を取りつつ声が聞えた方向を見ると、そこには小柄な金髪の少年の姿。眉間に深く皺を寄せて、男たちを睨みつけている。隣に、先ほどシローが抱きついた銀髪の青年も立っていた。
彼らの後ろで、ローラとキャロラインがリンファンに向けて笑いかける。彼女らが、シローとリンファンを救うために仲間を連れてきてくれたのだ。
「ちぃ! とりあえずこいつから片付けろ!」
思わぬ増援に慌てた男たちは、まず眼前のシローを仕留めようと再び剣を構える。
しかし、彼は敵が浮き足立った隙を見逃すほど甘くはない。
剣を繰り出した男の腕を掴んで強引に放り投げると、シローは一気に攻勢へと転じた。
リンファンという枷(かせ)がなくなった今の彼にとって、遠慮の二文字はまったく無縁のものだ。
痛めつけられたお返しとばかり、素手のまま敵を圧倒する。
程なくして、シローは自力で男たちの包囲網から脱出を果たしていた。
そんな彼を眺めつつ、金髪の少年が呆れ顔で口を開く。
「それができるなら最初からやれよ……手間かけさせやがって」
少年はシローを援護しようと魔法を放つタイミングを窺っていたようだったが、どうやら無駄になってしまったらしい。それだけ、シローの動きが目覚しかったということだろう。
確かに、今となっては追い詰められていたのが嘘のように思えてしまう。
「まあ、そんな時もあるさ。……さーて、どうしてくれようか」
シローはなおも不満げな少年にさらりと答えると、わざとらしく指をボキボキと鳴らしながら男たちを見やった。
口の端を持ち上げて笑みの形を作ってはいたが、目はまったく笑っていない。
やられた分は倍返し――そんな心の声が聞えてくるような不敵な表情。そういう子供じみたところも、三年前と何一つ変わってはいなかった。
またしても素手で飛びこんでいくのでは、とリンファンが心配した時、シローの背後から涼やかな声が聞えた。
『癒しの祝福よ、彼の者の頭上へ』
静かに流れる聖句とともに、シローの傷がみるみる塞がっていく。血の汚れは残っていたが、それさえ拭ってしまえば跡形もなくなっているだろう。
これは、神官が操る癒しの魔法だ。リンファンには馴染みが薄いが、教会や治療院で見たことがある。つまり、あの穏やかな美青年は神官ということか。
「――スラーヴァ」
シローが振り返ると、青年――スラーヴァは微笑とともに一振りの剣を彼に手渡した。
「ほら、忘れ物だ」
「悪いな」
それを受け取り、シローの顔に会心の笑みが浮かぶ。
不利を悟って逃げ腰となる男たちを鋭く視線で射抜き、彼は剣をすらりと抜き放った。
「――逃がしはしねぇぜ」
震え上がって一歩も動けずにいる敵に向け、地を蹴って跳躍する。
「一人残らず死ねぇ!!」
シローの叫びに、いくつもの哀れな悲鳴が重なった。

6.失った牙と、血に染めた爪と

ややあって、男たちは全員が地に伏していた。
もともと戦士としての技量が違いすぎる。人質が意味を失った以上、シローが負ける要素はどこにもなかった。
「口ほどにもねえな」
苦しげに呻き声を漏らす男たちを見下ろし、せせら笑うシロー。
あれだけ暴れていても、殺さない程度に手加減をすることだけは忘れなかったようだ。男たちはみんな蹴りや肘の打撃で沈められており、命に関わるほどの怪我をした者は見当たらない。シローが剣を抜いたのは、敵のそれを受け流すのと威嚇のためだろう。

「――んだよ、全然出番ねえじゃねーか。阿呆らしい」
始終見守っていた少年が、再度不満の溜息を漏らす。
彼の言う通り、あれからはシローの独壇場であった。魔法の援護すら、挟む余地がないくらいに。
「そう言うな、助かったよ」
シローは珍しく素直に礼を述べると、そのままリンファンの元へ歩み寄ってきた。
どんな表情をしてよいかもわからず、顔を伏せて身を強張らせる。
今は、彼と目を合わせるのが辛い。
「……奴らに何かされなかったか」
気遣うように声をかけてくるシローに、リンファンは答えることができなかった。
代わりに、こんな言葉が口をついて出る。
「どうして来たのよ……」
違う。本当はこんな事が言いたいのではない。
しかし、彼女の口唇はその意志とは裏腹に言葉を紡いでいった。
「義理や人情で、中途半端に期待を持たせるようなことはしないで。
 これ以上、惨めになりたくないの」
「――リンファン」
俯いたまま、それでもリンファンは止まらない。
押し殺していた思いが次々と溢れてゆくと同時に、視界が涙で歪む。
「お願い、本当のことを教えて。どんなに残酷なことでも構わないから。
 じゃないと、私……!」
リンファンは顔を上げ、ここで初めてシローを正面から見た。
真っ直ぐに向けられた漆黒の双眸。それが、驚くほど真摯な光を湛えて自分の姿を映している。思わず、一瞬どきりとした。
やがて、シローの声が決意と苦悩をのせて響く。
「わかった、全部話す。――聞いてくれるか」
その言葉に、リンファンはただ黙って頷いた。


ローラたちが少し離れて見守る中、シローは徐々に重い口を開き始めた。
その表情と口調は、普段の彼からは考えられないくらい優しい。
「――俺が旅を始めたのは十六の時だ。
 剣もロクに使えないガキが、生意気に世界を見ようと思ってな。
 手当たり次第歩いて――いつの間にか慣れた」
リンファンは、黙って彼と向かい合っている。
言葉の一つ一つを聞き逃さないよう、じっと耳を傾けているようだ。
「大抵はてめえでどうにかなるからな、何でも平気だった。
 お前に会って、家に転がり込んで、しばらく満足してた」
リンファンの顔を見つめるシローの瞳は、どこか苦いものを秘めていた。
しばし逡巡した後、彼はどこまでも低く声を響かせる。
「でも――そのうち怖くなったんだ」
ローラには、その言葉はとても意外に思われた。
この屈強で破天荒な戦士が、一体何を恐れるというのだろう。
「怖、く……?」
リンファンが呟くと、シローは静かに頷いた。
自嘲気味に微笑いながら、それでも目を逸らさずに言う。
「隣にお前がいるのが当たり前になって、一人じゃ何もできなくなってた。
 気付いた時、てめえがやたら小さく思えたよ。怖かった」
「……」
対するリンファンは無言。
シローは一旦息をつき、胸につかえていたしこりを吐き出すように語った。
「――別れた後になって、ようやくわかったんだ。
 俺は逃げてただけだった。何も見えちゃいなかった。
 後悔した。もう、お前はいなかったから」

話を聞いていくうち、ローラの心に次々と疑問符が浮かぶ。
シローがリンファンのもとを離れた経緯は何となく理解できる。
しかし、それが過ちと気付いたのならば、三年間も彼女を一人にする必要はなかったのではないだろうか。
お互いに求め合っていることを知りながら、なおも背を向ける理由がわからない。
そんな疑問を代弁するかのように、リンファンが声を上げた。
「どうして……戻ってきてくれなかったの」
ややあって、苦悩に満ちた返答が響く。
「……戻れるかよ」
シローの表情は先ほどと同じように、無防備な脆さを湛えていた。
一言ずつ、彼の告白は続く。
「気付くのが遅すぎたんだ」
「どういう……こと」
恐る恐る問うリンファンに、シローは意外にもはっきりとした口調で答えた。
「自棄になって、人を斬った」
痛みに揺らぎながらも、彼の瞳はリンファンへ向けられたまま動かない。
彼女は一瞬何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざしてシローの顔を見た。言葉の続きを、求めているのだろう。
シローも、軽く頷いたあとそれに応じる。
「八つ当たりで、人ひとりの命を奪ったんだ」
「……」
目を大きく見開くリンファンの前で、彼は静かに言った。
「だから、お前のそばにはいられない」
これが、三年間のうちに導き出した結論なのか。
――本当に、それでいいのだろうか?
顔を伏せたリンファンの姿に、ローラの胸まで締めつけられる。
「終わりにしよう。もう、お前のそんな顔は――」
シローが神妙な顔つきでリンファンを覗きこんだ時、突如として彼の顔があらぬ方向を向いた。
「みごぁ!」
情けない声をあげ、顎のあたりを抑えて呻くシロー。
その前に、固く拳を握り締めたリンファンが立っていた。
「お……前、いきなり何ひやがる……」
喋っている途中で殴りつけられ、舌を噛んだのだろう。シローの言葉は微妙に呂律が回っていない。
涙目の抗議にも構わず、リンファンは彼の顔面を打ち据えたばかりの拳をさすっていた。
「痛た……」
「馬鹿、そんなやり方じゃ拳痛めるに決まって――」
やはり、リンファンの細腕では多少の無理があったらしい。痛みに顔を顰める彼女を見て、シローが呆れたように嗜める。
そこへ、さらに拳が飛んだ。
俯いたまま、リンファンは腕を振り回しながらシローの顔や胸を闇雲に叩いていく。
「お、おい。人の話を聞け! まずは話し合おう、うん」
シローはリンファンを慌てて取り押さえようとしたが、彼をもってしても勢いはなかなか止まらない。
結局、最後はしっかりと抱きしめる格好になってしまった。
リンファンがようやく大人しくなったのを確かめ、安堵したように息を吐くシロー。
同時に、彼の腕の中から小さく声が漏れた。
「……じゃない」
「?」
怪訝そうに眉を動かすシローを、リンファンがキッと見上げる。
彼が一瞬怯んだ顔を見せると、彼女は好機とばかりにまくしたてた。
「黙って聞いていれば、何よ。結局は、全部あなたの都合じゃない!」
あまりの剣幕に、大きく息を呑むシロー。その表情は、まるで母親に叱られる子供だ。
まったく口を挟む隙を与えず、リンファンはさらに声を張り上げた。
「一人で勝手に決着つけて、私の気持ちなんてお構いなしに突っ走って!
 ――あなた馬鹿よ、救いようのない大馬鹿だわ!!」
「お前、そりゃ言い過ぎ……」
辟易した様子でぼやいたシローだったが、潤んだ瞳で肩を震わせるリンファンの姿に、それきり二の句が継げなくなる。
続く言葉は、溢れる涙とともに発せられた。
「人食い虎にでも、なったつもり……?」
哀しげに微笑み、リンファンがシローを見る。
「――確かに、あなたは虎ね。
 世界を奔放に駆け回って、狭い檻が嫌いで、何者にも媚びなくて。
 戦いで誰かを傷つけて、同じだけ自分も傷ついて。
 血だらけの姿で私の前に立って、脅かそうとする。遠ざけようとする。
 自分は、人を殺して食べたんだって……」
やがて、声は嗚咽へと変わった。
「逃げられや……しないのよ」
細い両腕で必死にしがみつきながら、シローの胸に顔を埋める。
「人食い虎と知っても、私はここから離れられない。
 今でも……この胸はこんなに温かいから」
今にも消え入りそうな声で囁くリンファン。その涙に濡れた頬に、シローの指が触れた。
「もう泣くな」
「じゃあ、せめて居場所くらい選ばせてよ」
拗ねたような口調が、どこまでも切なく響く。
「そうだな」
頷き、ばつが悪そうに目を伏せるシロー。
「――悪かった」
小さく詫びると、彼は震える彼女をそっと抱いた。


「……さて、俺たちは先に戻ろうか」
ずっと状況を見守っていたスラーヴァが振り返り、小声で皆に囁く。
「ふえ?」
思わずローラは声を上げたが、キャロラインは彼の言葉に頷いたかと思うと、すぐに踵を返して歩き始めた。
「うん……あとは、二人が決めることだもんね」
「そーだな。とっとと帰ろうぜ」
ヴィヴィオも、もう興味を失くした様子で後に続く。ローラも、それに従うことにした。
足音を立てないよう注意を払い、その場をゆっくりと立ち去る。
後には、ようやくお互いの気持ちを確かめ合った恋人たちの姿が残された。

7.虎の約束

日が暮れて、『涼風亭』は一日で最も賑わう時間帯を迎えていた。
その一角、いつものテーブルで夕食を囲むローラ達の姿。五つ置かれた椅子のうち、一つだけが空いている。
「結局、シローさん今日は戻ってきませんでしたねぇ」
運ばれてきたサラダを取り分けながら、ローラはそう口にした。
帰りが遅いからといって心配されるような年齢でもないが、全員が揃ってないと何となく調子が狂う。
事実、テーブルの上には四人前にしてはやや多すぎる量の料理が並んでしまっていた。
つい、いつもの調子で注文をしてしまったのだ。
それに気がついた時は、皆が苦笑したものだったが。
「――まあ、三年ぶりに積もる話でもあるんだろうさ」
スラーヴァが答えると、今度はヴィヴィオが、渡されたサラダから生タマネギを取り除きながら呟いた。
「案外、帰ってこなかったりしてな」
「ふえ? 冗談はやめてくださいよぅ、ヴィヴィオくん」
ローラは驚いてヴィヴィオを見たが、意外にも彼は真顔だった。
「勿論帰ってこねえってのは冗談だがよ。ありえねえ話じゃねーぜ?
 冒険者ってのは、明日があるかわかんねー商売だからな」
何気ない一言が、やけに重く響く。
冒険とは、その名の通り自らの命を危険に晒す行為に他ならない。
運悪く旅の途中で帰らぬ人となった冒険者たちの話は、ローラも嫌というほど耳にしてきている。
幸い、まだ自分ではそれを実感するような出来事にぶつかってはいないものの、これからもそうである保証はどこにもなかった。無論、それは他の仲間たちも同じことだ。
いくら腕が立とうと、シローも普通の人間に過ぎない。不死身でない限り、死ぬ可能性は当然ある。
そうなれば、リンファンはひどく悲しむだろう。
「……そっか。そうだよね……。
 リンファンさんは、シローさんと一緒にいたいだろうし……」
「うにぃ……」
キャロラインの言葉に、ローラも思わず肩を落とす。
シローがリンファンと共にいることを選んだとすれば、それはすなわち彼が冒険者をやめることを意味するからだ。
彼らの幸せを考えるならば、確かにそれが最善だとは思える。
しかし、もう五人で冒険に出られないと考えるのは堪らなく寂しかった。
板ばさみに懊悩するローラに、スラーヴァがそっと声をかける。
「まあ、それはシローが自分で決めることだよ。
 今、俺たちがここで言ってどうにかなる問題じゃないしね」
正論とわかってはいても、すぐに受け入れることは難しい。
なおも俯いていると、ヴィヴィオもローラを気遣うように口を開いた。
「だな。とりあえず話は後にして食おーぜ」
「はいですぅ……」
言われて、止まっていた食事の手を再びのろのろと動かし始める。
目の前にいくつも並べられた料理の皿が、今はやけに味気なく映った。


自室へ戻った後も、ローラはなかなか寝つくことができなかった。
頭の中では、今日一日の出来事がぐるぐると巡っている。
自慢ではないが、この十五年間あまり、恋とはまったく無縁の人生を送ってきた。
彼女にとって、それは憧れであり、同時に遠い世界の話でしかなかったのだ。
そんなローラが、初めて間近で見た恋愛。
それは本で読んだどの物語よりも複雑で、ずっと重いものを孕んでいた。
若さゆえの過ちで自ら愛を手放した男と、置き去りにされてなおも待ち続けた女。
己の罪に苦悩した男は女に背を向け、全てを知った女は男を信じて受け入れた。
愛は人を弱くするのか、それとも強くするのか。――きっと、両方なのだと思う。
シローとリンファンの姿からは、おぼろげにそんなことを感じ取れた。
「はぁ……」
小さく溜息をつきつつ、寝返りを打つ。
床について大分経つというのに、眠くなるどころか目は冴えていくばかりだ。
「あのぅ……キャロラインちゃん。起きてますぅ?」
夜の闇が作る沈黙に耐えかね、隣のベッドにおずおずと呼びかける。
とっくに眠ってしまったものと思っていたが、意外にもはっきりとした声が返ってきた。
「……うん」
普段寝つきの良い彼女も、今夜ばかりは眠れずにいたのだろう。
「これからぁ、一体どうなるんでしょうねぇ……」
「うん……なるようにしかならないのかな……」
口々に、胸の内にある不安を囁き合う。
考えていることは、二人とも同じはずだった。

――“手探りで進む者たち”は、どうなってしまうのだろう?

全ては、シローの選択にかかっている。
自分ではどうにもできないもどかしさを胸に、ローラたちは長い夜を過ごしていた。


そして翌朝。
珍しく寝坊をしてしまったローラは、キャロラインとともに慌てて食堂へと急いだ。
「――よう、今朝は遅いんだな」
降りてきた二人に、シローが普段通りに声をかけてくる。
テーブルには、既にヴィヴィオの姿もあった。
スラーヴァがいないことを除けば、拍子抜けするくらい、いつもの朝の光景だ。
「シローさん……」
「帰って、きてくれたんだ……」
意外そうな二人の顔を見て、シローが露骨に眉をしかめる。
「当たり前だろう。……それとも何か、帰ってきちゃ悪いのか?」
彼の拗ねた表情を見て、ローラは慌てて付け加えた。
「あの、そうじゃなくってぇ……その、リンファンさんはぁ……」
答えを訊くのが怖くて、ついつい及び腰になってしまう。
そんな彼女の緊張をよそに、当のシローは思いの他あっさりと口を開いた。
「ん? ああ、そのことか。……とりあえず、好きにしろとさ」
「……え?」
思わず聞き返したローラに、半ば諦めたような様子でシローが続ける。
「男が一度決めたことを、そう簡単に投げ出すなだとよ。
 立派になるまで帰ってくるなとかぬかしやがった、あの女」
溜息混じりに苦笑するその様子に、思わず肩の力が抜ける。
「あはは。……でも、良かった」
「本当にぃ、良かったですぅ……」
安心して笑顔を向け合う二人を尻目に、ヴィヴィオがぽつりと呟いた。
「ま、そんなとこか。大体なあ、お前らは大げさに考え過ぎなんだよ」
彼とて気にならなかったはずはないだろうが、それを表に出さないあたりはヴィヴィオらしい。
でも、その言葉にはさすがに少しムッとしてしまう。
何しろ、昨夜はこれでほとんど眠ることができなかったのだから。
「元はといえばぁ、ヴィヴィオくんがあんなに脅かすからじゃないですかぁ〜」
「んだよ、俺は可能性を言ったまでだろー」
さらに反撃しようと口を開きかけた時、キャロラインが手を叩いて割って入る。
「はいはい、二人とも喧嘩しないの」

そんな時、戸口の方から涼やかな声が響いた。
「楽しそうだね。とりあえず、いいかな?」
振り返ると、そこには大きな封筒を手にしたスラーヴァの姿。
彼はこちらに歩み寄ると、封筒から一枚の書類を取り出してテーブルの上に広げた。
「ローラたちが寝ている間に、仕事を一つ貰ってきたんだ。
 何でも、ギルドの人形技師が一人、無断欠勤しているらしくてね。
 心配だから様子を見てきてくれって」
「は? また随分とセコい仕事だなぁ、おい」
すかさず、ヴィヴィオが不満の声を上げる。
確かに、冒険者の任務にしてはあまりに地味な内容だ。ローラも、これには一瞬閉口してしまった。
考えてみれば、駆け出し中の駆け出しとも言える自分たちに、そうそう重要な仕事が回ってくるはずもないのだが。
「これじゃあ当分立派になれませんね、シローさん」
キャロラインが悪戯っぽくシローに語りかけると、彼は肩をすくめて答えた。
「まあ、世の中こんなもんだろ」

後になって、ローラは知ることになる。リンファンが、シローに伝えたもう一つの言葉を。

――どこへ進んでもいい。でも、必ずここへ戻って来て。ずっと――待っているから。

この先の冒険で、どのような苦難が待ち受けているかはわからない。
しかし、何があってもシローは彼女との約束を守るだろう。
虎が帰り着く先は、たった一つしかないのだから。


〔執筆者あとがき〕

そろそろ各キャラクターにスポットを当てた話をしようということで、今回はシローを主役にエピソードを作ってみました。
恋愛ものになったのは、「どうせだから、普段とは全く違う一面を出してみよう」と、シローには似合わないであろうテーマを選んだ――というのが本音だったりします。

そんな軽い気持ちで書き始めた物語でしたが、蓋を開けてみたらがらりと様相が変わってしまいました。
原因は色々とあるのですが、相手役である『リンファン』を書き手たる私が気に入ってしまった、というのが最も大きいですね。
おかげで、後にはこのカップルを題材にした連作短編まで書く羽目になってしまったという……。(なお、こちらは「ファンタジーな100のお題」に掲載しております)

後半はシローやリンファンの心情を私なりに考えつつ、一言一句、真剣に執筆させていただきました。
彼らの気持ちが、少しでも読者の皆様に伝えられれば良いなと願っております。

ちなみに、シローのプレイヤーである386氏はこの話を読んで「今回、やたらと苛められてないか?」と仰っていましたが……。
最もいじられるのは主役の常、ここは潔く諦めてもらう事としましょう。

なお、この話のラスト近く、“空白の一夜”を補完した番外編も用意してみました。
興味のある方は、この下のリンクからどうぞ。

【番外編】 腕の中の、帰るべき場所