“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第2話番外編
腕の中の、帰るべき場所
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/08


腕の中の、帰るべき場所
〔執筆者あとがき〕


腕の中の、帰るべき場所

久々に訪れたその家は、何一つ変わっていなかった。
深緑の屋根、クリーム色の壁、やや色褪せた茶の扉――全てが三年前のまま、穏やかな佇まいをみせている。
暖かく、優しく、そして窮屈だった、かつての居場所。
一度は逃げ出したそこへと戻って来たのだ。
眺めるシローの胸中に、複雑な感慨が湧きあがる。

「どうしたの? ぼうっと立ち尽くしちゃって」
傍らのリンファンが、シローを見上げた。
くせのある赤茶色の髪に縁取られた顔が、まばゆい微笑みを向けてくる。
「――いや」
シローがかぶりを振ると、リンファンは軽く首を傾げたが、やがて家の扉を開いて中に入った。促され、シローも彼女の後に続く。
一歩足を踏み入れると、やはり昔と変わらぬ部屋があった。
所狭しと並んだ家具も、細々と揃えられた雑貨も、一つ一つが懐かしい。
ベッドのすぐ横、小さな台に飾られた花瓶。そこに活けられた花に、ふと目が留まった。
精霊の加護を強く受けた場所にのみ咲くという、決して枯れない花たち。別れる前、シローがリンファンの誕生日に贈ったものに間違いない。
自分が身勝手に姿を消してから、リンファンはあの花にどんな思いで水をやり続けていたのだろうか。
今更ながら、置き去りにした日々が刃の鋭さをもって心に迫る。

シローが言葉を失った時、足元にふわふわとした温かいものが擦り寄ってきた。
続いて、にゃあ、と小さな鳴き声が耳に届き、驚いて視線を巡らせる。
小さな身体をふっくら包み込む虎毛、丸く大きな緑の瞳、ぴんと立てられた長い尻尾。
「トラ……」
シローが拾って育てた愛猫が、そこにいた。
彼のことを覚えていたらしく、やたら嬉しそうにまとわりついてくる。
しかし、トラは三年前、シローがこの家を出る前日に行方不明になったはずである。
――何故、今ここにいるのだろう?
シローの疑問を察したように、リンファンが口を開いた。
「あなたがいなくなってすぐに、戻ってきたの」
顔を向けると、哀しげな笑みを浮かべているリンファンの姿。
「一人で途方に暮れていた時に、扉を引っかく音がして。
 開けたら、トラが座ってたの。嬉しくて……余計に寂しくなって。
 気付いたら、この子を抱きしめて大泣きしてたわ」
当時の情景が鮮明に浮かび上がり、シローの胸を痛みとともに強く締めあげる。
トラが消えた時、彼は自由が欲しかったのだと思った。
自らの牙と爪を持つものを縛ることなどできないのだと、教えられた気がしていた。
――だから、シローも家を出ることを選んだ。そうするしかないのだと、信じて疑わずに。

でも、それは大きな間違いだったのだ。
冒険に憧れ、一時そこを離れたのだとしても、トラは帰るべき場所をきちんと覚えていた。
自分にとって何が大切で、そして誰が自分を必要としているのかを知っていた。
弱さが生み出した迷いから、全てを見失ってしまったシローとは違う――愛した女を、孤独へと追いやった男とは。
「……わかっていたんだな、お前は」
喉を鳴らして甘えるトラを撫でながら、ぽつりと呟くシロー。
後ろめたさから、リンファンの顔を見ることができなかった。
そんな心中を知ってか知らずか、リンファンは彼に声をかけてくる。
「今日……泊まっていく?」
背中越しの声が、まるで哀願するようにか細くて儚い。
目を合わせられないまま、シローはゆっくりと頷いていた。


夜の闇に、蝋燭の灯りだけが小さく浮かんでいる。
シローの腕枕にもたれているリンファンの顔がその炎に淡く照らされ、静寂の中で微かに瞬いていた。
つい先程まで、せわしなく動き回っていたトラも、いつの間にか姿が見えなくなっている。
おそらくはどこかで眠っているのだろうが、その気配すら感じさせない。
思い返せば、昔から変なところで気を遣う猫だった。二人の邪魔にならないよう、距離を置いているに違いない。
まどろむような心地良さの中で、そんな事を考えていると、リンファンがふと身じろぎした。
柔らかな髪の感触が、シローの腕をくすぐる。
向かい合うように身体を横に向けると、彼女は黙って身を寄せてきた。
「……増えたね」
「何が」
「傷」
そう言うと、シローの肌に指を滑らせ、大小無数にある傷のいくつかを示す。
自分では、それがいつ負ったものなのか判別がつかない。昼間の立ち回りでの怪我でさえ、魔法で塞いでもらった直後にはどこにあったか忘れてしまったくらいだ。
「よく覚えているもんだな」
半分呆れた声で言うと、リンファンは軽く口を尖らせた。
「これだけ増えてたら誰だってわかるわ。あなたが無頓着すぎるのよ」
「いちいち傷なんて数えねえよ。そういう奴は生き残れないからな」
口にしてから、しまったと思ったがもう遅い。みるみるうちに、リンファンの表情が翳っていく。
「そうやって、また……無茶を繰り返すのね」
人の気も知らないで、と消え入りそうな声が後に続いた。
何をもって無茶と言うのかはともかく、今のシローが死と隣り合わせの日常にいることは確かだ。
自ら危険へと飛び込み、命を懸けなければ何一つ手にすることができない。冒険者とは、そういう職業なのだ。
たとえ今日まで無事でも、明日もそうである保証がどこにもないことは、身にしみて知っている。

「……これから、どうするの?」
漆黒の瞳を不安げに揺らして、リンファンが問う。
彼女が恐れるもの、それは他ならぬシローの死に違いない。
「また……一緒に暮らす……?」
恐る恐る紡がれた言葉が、切なる願いをのせて響く。よるべのない表情に、胸が詰まった。
シローが返答に窮していると、リンファンは軽く息をつき、寂しげに口元をほころばせた。
「――冗談よ」
それが嘘だとわかるだけに、余計に辛い。
「一度やると決めたことを、途中で投げ出せる人じゃあないものね」
どこか諦めたように、リンファンが呟く。
「……お前には、また……辛い思いをさせるかもしれない」
逡巡のあと、シローはやっと言葉を搾り出していた。
自分の我侭だということは、充分に承知している。それでも、まだ旅をやめるわけにはいかないのだ。
パーティのメンバーは、皆シローよりも若い。良い冒険者となる資質はあっても、経験が圧倒的に足りなかった。
もうしばらくの間はシローの存在が仲間たちには必要だろうし、自身もまた、彼らとの旅の先に待つものを確かめたくもある。
ただ、それがいつ成し遂げられるのかは、皆目見当がつかない。
一年後か、二年後か――あるいは、もっと先か。
それだけの間、リンファンを待たせることになるだろうし、途中でシローが命を落さないとも限らない。

正直なところ、まだ迷い続けている。
リンファンの幸せを願えばこそ、戻るべきではなかったのかもしれない。
常にそばにあって、彼女を守ることはできないのだ。
再び同じ事を繰り返すのではないだろうか――それが、何よりも怖い。
思わず目を伏せたシローの頬に、白い手がそっと触れる。
顔を上げると、リンファンが微笑っていた。
「あなたを選んだ時から、覚悟はしてた。考えてみて……私、もう三年待っているのよ。
 辛くて我慢ができないようなら、とっくに他にいい人見つけてるわ」
冗談めかして言うと、悪戯っぽく首を傾げてみせる。
「自分で決めたからには、しっかり実行してよね。
 途中で挫けて、中途半端なまま戻ってきたりしたら許さないから」
リンファンは気丈に言い放ったが、直後その瞳が潤んだかと思うと、耐えかねたように背を向けてしまった。
微かに震える肩を抱き寄せると、柔らかな肌の弾力が温もりとともに伝わってきた。
「ギルドに寄るついでに、来ちゃ駄目か?」
こんな時に、我ながら気の利かない台詞だと思う。
ややあって、リンファンがくすくすと笑う声が聞こえた。
「……どうしてもって言うなら、一晩くらい泊めてあげてもいいわよ」
頬を涙で濡らしたまま、リンファンは振り向きざまにシローの胸に顔を埋める。
「どこへ進んでもいい。でも、必ずここへ戻って来て。ずっと――待っているから」
必死にしがみついてくるその姿が、どこまでも限りなく愛おしい。
腕の中にあるものから、今度こそ逃げずに向き合おう――今なら、きっとそれができる筈だ。
リンファンを力強く抱き締め、大きく頷くシロー。
三年間の放浪の末、自分はようやく帰って来ることができたのだ。

部屋の片隅から、トラの気の抜けた寝言がかすかに響いてきた。
リンファンと顔を見合わせ、シローはこの日初めて心の底から笑った。


〔執筆者あとがき〕

長編第2話のラスト近く、“空白の一夜”を描いた番外編。
シローの連作短編1〜4の続編にもあたります。

正直、猫の『トラ』を再登場させるためだけに書いた作品なのですが……展開上、微妙にラブシーンが挟まれてしまいました。
こういう方向性は嫌いではありせんが、自分の旦那が操るキャラクターがモチーフと考えるとかなり複雑です。

とりあえずは、もう開き直るしか道はないかもしれません……。