“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第9話
鏡の向こう(後編)
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/07


1.繋がっていく糸 5.再会する二人
2.刻まれし烙印 6.最初に護りたかったもの
3.許されざる自己犠牲 7.因縁を砕く光
4.激流と化す盾
〔執筆者あとがき〕


1.繋がっていく糸

芸術都市と名高いセレナイトの市街。その洗練された街並みや道端の彫刻が、月の光に淡く照らされている。
小夜の静寂に包まれた通りを、緊張した面持ちで歩く三つの人影があった。
先頭は赤みがかった金髪の小柄な少年、次いで、中背ながら逞しい体つきの黒髪の戦士と、薄いピンクのワンピースを纏った可憐な少女が後に続く。
言うまでもなく、“手探りで進む者たち”――ヴィヴィオ、シロー、キャロラインの三人である。

彼らは、捕われてしまった二人の仲間――スラーヴァとローラ――を救出すべく行動をおこしている最中だった。まずは情報を集めるため、ヴィヴィオのつてを訪ねる段取りとなっている。
子飼いの暗殺者を抱えているような男の尻尾を掴むには、裏社会に通じている者を頼るのが手っ取り早い。
無駄に割ける時間がない現状では、それが最善の策と思えたのだが……。

「おい……まだか?」
痺れを切らせたように、背後のシローがヴィヴィオに問う。
隠しきれない焦慮が、言葉の端々からありありと滲み出していた。
「ちょっと待てよ。こっちも今探してるんだ」
周囲を見渡しつつ、苛立ち混じりに応じるヴィヴィオ。
既に小一時間ほど歩き回っているというのに、目標のものが一向に見つからないのだ。
「キャロライン、いるか? ……迷子だけは勘弁な」
「は……はい!」
声をかけるシローの背後から、はっきりとキャロラインが答える。それを聞いて、ヴィヴィオも内心で安堵した。信じがたいほどの方向音痴を誇る彼女である。ここではぐれでもしたら、目も当てられない。
そんなことを考えつつ一旦足を止めると、見落としがないように注意深く辺りを窺う。
「おかしーな……そう遠いはずはねーんだが」
「場所を知ってるんじゃなかったのか?」
「俺も、実際行ったことはねぇからな。というか……細かい住所だって聞いてねぇ」
ヴィヴィオの言葉に、シローはことさらに落胆した表情をみせた。
「やっぱり知らねぇんじゃねえか」
今にも怒り出しかねない勢いの彼を制しつつ、なおも周囲へ視線を走らせるヴィヴィオ。
「――最後まで聞けって。目印があんだよ」

実のところ、ヴィヴィオは“その人物”の住所はおろか、顔や名前すら知らない。
ただ、たった一つ“困った事があって、自分ではもうどうしようもなくなった時に、それを解決する方法”だけを教えられていたのだ。

――これと同じものを探すんだよ。大きな街には必ずあるからの。

恩人の言葉とともに、“目印”の持つ意味が、特徴的な形と一緒に浮かび上がる。
その時、とある家の扉の上に小さく、記憶と一致する図形が見えた。

「……あった!」

思わず、喜びの声を上げるヴィヴィオ。
“M”にニ本の線を加えたルーン。――意味は確か、“自ら切り拓く運命”
ヴィヴィオは慌てて家に駆け寄ると、時間も忘れて扉を叩き始めていた。


程なくして、三人は応接間へと案内された。
「すまねぇな。見ず知らずの人間がこんな夜更けに邪魔してよ」
振舞われた茶を受け取りながら、申し訳なさそうにヴィヴィオが呟く。
ようやく発見した嬉しさから、思わず大きなノックを響かせてしまったのだが、いかに非常時とはいえ、初めて訪れる家であることに変わりはない。
もう夜も更けようとしていることを考えると、実に非礼極まりない行動だろう。
肩身の狭い思いで茶をすするヴィヴィオに、家の主がにこやかな微笑を向けてくる。
「いえ、構いませんよ。あの方の教え子の頼みですしね」
“その人物”とは、バティストと名乗る中年の男だった。穏やかで丁寧な物腰がどこか、ここにいないスラーヴァを思わせる。
寛容な協力者の好意に感謝しつつ、ヴィヴィオはとりあえず気持ちを切り替えることにした。とにかく、今は時間が無い。
「それで……早速本題にうつりてぇんだが」
ヴィヴィオは表情を引き締めて用件を切り出そうとしたが、バティストはやんわりとした口調でそれを制した。
「すみません。……お話の前に、少しだけお待ち頂けますか?」
そのまま、彼は部屋を出て行ってしまう。
肩透かしをくらった気分で溜息をつき、ソファの背もたれに体を預けるヴィヴィオに、キャロラインが首を傾げながら問いかけてきた。
「ヴィヴィオくん。“あの方の教え子”って、どういうこと?」
考えてみれば、ここを探すのに夢中で事情を伝える暇もなかった。彼女の疑問は至って当然だろう。
自らの余裕のなさを改めて自覚し苦笑した後、簡単に説明を始める。
「“あの方”っていうのは、孤児だった俺を育てた婆さんのことでよ。
 ナベリウスで学校をやってて、俺も昔そこに通ってたんだ。
 あの婆さん、ちょっとした名士みたいなもんで、大陸中に知り合いがいる。
 もっとも、それは表の顔に過ぎねぇんだが……」
話が佳境に差し掛かったころ、背後で扉の開く音がした。
構わず説明を続けかけたヴィヴィオを、聞き覚えのある声が遮る。

「――おや、ワシの噂をしているのかい、ヴィヴィオ?」
慌てて振り返った先に映る、一本に編んだ綺麗な白髪と、老いてなお輝きを失わない黒い瞳。表ではフェアフィールド学園の長セシリア、そして裏では影に生きる者たちを統べる、かつての大怪盗“ナイトローズ”。
師と並んでヴィヴィオが頭の上がらない、もう一人の恩人の姿がそこにあった。
「婆さん……」
予想外の事態に驚き、目を丸くするヴィヴィオ。
確かに、この場所を彼に教えたのはセシリアである。しかし、大陸を忙しく駆け巡っているはずの彼女が丁度ここに来ていようとは。
そんなヴィヴィオをよそに、セシリアは人好きのする笑みをこちらへ向けてきた。
「そちらのお嬢さんは初対面じゃの。
 ワシはセシリア……今はしがない冒険者の一人じゃ。どうかよろしくの」
冒険者。
彼女の口から発せられた意外な単語に、今度は呆れにも似た溜息が漏れる。
「……まだそんな無茶やってたのかよ。もう年だろ……」
「何を言うんじゃ。ワシはあと五十年は生きるぞぃ。
 威勢だけの若いもんにはまだまだ負ける気がせんわ」
そう言えば、冒険者がよく利用するフロースパーの自由市場で、やたらとクジ運の良い老婆がよく現れるという噂を聞いたことがあるが……まさか?
軽い目眩をおぼえてヴィヴィオは頭を抱えたが、続くセシリアの言葉はさらに彼に衝撃を与えた。
「――さて、お主と顔を合わせるのも随分と久しぶりかの。シローや」
「え?」
何故、セシリアがシローの名を知っているのか? ……というより、今の口ぶりでは昔からの知り合いのようではないか。
顔を向けると、シローは腕を組んで座ったまま黙りこんでいた。
セシリアを一瞥した後、面白くもなさそうにぽつりと呟く。
「あの時、名乗った憶えはないんだがな」
「長く生きていると、色々と噂は耳に入るものじゃよ。
 八年の間に、随分と逞しくなったの。見違えるようじゃ」
懐かしげに目を細めるセシリアから照れたように顔を逸らしたかと思うと、一転して力の篭った視線を向けるシロー。
「悪ぃが、昔話をしてる暇はねえ。
 あの何とかいう腐れ貴族野郎が、スラーヴァと仲間を拉致しやがったんでな」
重々しい彼の口調に、セシリアの表情が初めて曇った。
「ああ……そうみたいだね。ワシもあ奴が動き出したという話を聞いての。
 しばらくセレナイトで探りを入れていたんじゃが……今回はしくじったわい。
 ワシともあろう者が、こうも後手に回ろうとはのぅ」
「ちょ、ちょっと待て。どういうことだ……?」
苦い声を絞り出すセシリアと、腕組みしたままのシローとを交互に見比べ、ヴィヴィオがうろたえる。
どうにも、話が良く見えてこない。隣のキャロラインも、訝しげに首を傾げるばかりだ。
「ああ……ヴィヴィオたちは知らない話だったのぅ。
 シローや、ワシから話しても良いかの?」
「……好きにしろ」

不機嫌そうにそっぽを向くシローに微笑んだ後、セシリアはヴィヴィオとキャロラインに、とある出来事を語り始めた。
話が核心へと近付くにつれ、かつてないほどの驚愕が意識を呑み込んでいく。
――何という偶然。そして、何という因縁であろうか。まさに、運命の導きとしか思えない。

「そんな……ことが、あったんですか……八年前に」
呆然と呟くキャロライン。驚きのあまり、目を大きく見開いたまま硬直している。
ヴィヴィオも似たようなものであったが、ふと、その脳裏に一つの疑問が浮かんできた。
「じゃあ、どうして今まで言わなかったんだよ」
「忘れてたんだよ」
「忘れてたって、お前……」
こんな重要なことを、忘れていたとはどういうことだろうか。
呆れとともに溜息をつくヴィヴィオに対し、シローは投げやり半分に言葉を返す。
「まあ、どうだっていいだろ。それよりも、まずはやる事があるだろうが」
最後の一言が、ヴィヴィオに現実を取り戻させた。
改めて気を引き締めた時、セシリアが真剣な表情で三人の方を見る。
「二人が囚われているはずの屋敷の場所のあたりはつけてあるでな、
 案内はすぐにでもできるはずじゃ。
 望むなら、こちらから何人か手伝いをやることもできるが……」
彼女が最後まで言い終わらないうちに、突如シローがその場に立ち上がった。
拳を真っ直ぐ前へと突き出し、決意に満ちた口調で言い放つ。
「要らねえよ。案内はしてもらうが、それ以上は必要ねえ。
 決着はてめえの手でつけるさ」
「――そう言うと思ったよ」
そんなシローの顔を眺め、セシリアもまた満足げに微笑んでいた。

2.刻まれし烙印

頬を包み込む絨毯の柔らかい感触に、ローラは目を覚ました。
徐々に覚醒していく意識の中で、ゆっくりと周囲に視線を巡らせる。
まったく見覚えのない、だだっ広く薄暗い部屋だった。
壁に据えつけられた燭台の灯りが華美な調度品を闇に浮かび上がらせ、どこか気味の悪い雰囲気を醸し出している。
――ここは一体、どこなのだろう?
身体を起こそうとするが、何故かバランスを崩して前へとつんのめってしまう。
後ろ手に縛られていることに気付いたのは、顔から絨毯に倒れこんだ直後だった。
顔面の痛みとともに、蘇ってくる記憶。
そう、自分はスラーヴァの双子の妹、スヴェトラーナによって捕われたのだった。だとすると、ここは……
再び転がらないよう、今度は細心の注意を払って上体を起こすローラ。
ようやく体勢を整えた時、正面の大きな扉が突如として開かれた。

豪奢な衣装に身を包んだ中年の男性とスヴェトラーナ、そして、護衛とおぼしき数人の男たちが部屋へと踏み込んでくる。
ローラが思わず身体を強張らせると、先頭に立つ中年男性が貼りつけたような笑顔を向けてきた。
「ようこそ、お嬢さん」
虚飾に塗り込められた笑みに、思わず嫌悪感をもよおすローラ。
いかに彼が端麗な顔立ちをしていようとも、その服装が寸分の隙もなく整えられていても、内に秘めた人格の歪みは隠しようがない。
口を真一文字に結んで反抗の意志を表そうとするローラの視線を軽く受け流すと、男性は恭しい礼とともに名乗った。
「私はヨハネス・オットー・マンシュタイン。以後、どうかお見知りおきを」
芝居がかった仕草と口調が、余計に不快感を肥大させる。
耐えきれなくなり、とうとうローラはマンシュタインへとくってかかっていった。
「あなたがぁ……あなたが、スラーヴァにあんな酷いことをしたんですかぁ?
 スヴェトラーナさんにだって……」
訴えながらスヴェトラーナの方を一瞬見たが、彼女の顔は無表情に凍りついたまま眉一つ動かない。
何とも言えない歯がゆさをおぼえるローラをよそに、マンシュタインはさも心外といったように軽く肩をすくめてみせた。
「酷いことをしたとは人聞きの悪い。私は、あの二人を心から愛しているよ。
 だからこそ、スタニスラーヴァをずっと探していたのだからね」
スラーヴァがあれほど呪った女性としての名前。
それが唾棄すべき男の口から発せられた瞬間、ローラはすかさず声を張り上げていた。
「スラーヴァは、そんな名前じゃありません!」
「おや、そうだったかな」
口の端を歪めて笑うマンシュタインを見て、ローラの脳裏に不安がよぎる。
一緒に捕われたはずのスラーヴァの姿が、ここにはなかったからだ。
それに気付くと同時に、悲鳴に近い叫びが喉から飛び出す。
「スラーヴァはどこですかぁ!? スラーヴァに会わせてください!」
怒りと焦慮が、ローラの頬を上気させる。まるで駄々をこねる子供のようだと、自分でも思った。
そんな彼女をからかうが如く、ことさらに悠然とした口調でマンシュタインが答える。
「焦らずとも、すぐに会える」
マンシュタインの目配せに、護衛の男が一礼して扉の向こうに消えた。
間もなく、彼がスラーヴァを連れて部屋へと戻って来る。
両手を前に縛られてはいたが、特に怪我などはなさそうだ。
「スラーヴァ!」
叫んだローラの姿を見て、スラーヴァが驚いた表情を向ける。
「ローラ……無事だったかい!?」
「わたしは大丈夫ですよぅ。スラーヴァこそ……」
安堵とともに、互いに対する気遣いの言葉を交わす二人を遮るように、マンシュタインの声がスラーヴァを呼んだ。
「久しぶりだね、スタニスラーヴァ」
途端に、スラーヴァの表情が険しく歪む。
「その名で俺を呼ぶな。虫唾が走る」
毅然と睨む彼を、目を細めて見つめるマンシュタイン。
まるで美術品を愛でるような目つきだと、ローラは思った。少なくとも、心を持った人間に向けるべきものではない。
「話には聞いていたが、随分と勇ましくなったな。
 それでこそ、私も君を一層愛せるというものだよ」
「もう貴様の思い通りにはさせない。俺は人形じゃないんだ」
「君は私のものだ」
「違う!」
怒気を漲らせ、スラーヴァが声を荒げる。
その抵抗すら楽しむかのように、マンシュタインは陰惨な笑みを彼へと向けた。
「いいや、違わないさ。その証拠も、きちんとある」
主の意図を察し、背後にいた護衛の一人が短剣を手にスラーヴァの前に立つ。
それを見て、彼の顔が突如蒼白になった。
「やめろ!」
激しく抵抗するスラーヴァを、マンシュタインの瞳が残酷な光を湛えて映し出す。
「なに、恥ずかしがることはないだろう?
 それに……あまり暴れると、このお嬢さんが少し困った事になるかもしれない」
突然に話を振られ、ローラは思わず身をすくませた。
いつの間にか背後に回っていたのか、スヴェトラーナが短剣を喉元へと突きつけてくる。
眼前の光景に、スラーヴァは大きな歯ぎしりとともに動きを止めた。
「……ローラは関係ない……彼女に手を出すな」
「誤解しないでもらいたいな。私もこういったことは好まないのだよ。
 君さえ大人しくしてくれれば、彼女に危害を加えたりはしないさ」
「……っ」
悔しさと怒りに身を震わせるスラーヴァの姿。
申し訳ないという思いが、ローラの意識を恐怖から解き放つ。
「スラーヴァ、わたしのことはぁ……」
声を発した時、スヴェトラーナの短剣が僅かに首筋へと食いこんだ。
「――動かないで、と言ったはずよ」
精一杯に振り絞った勇気が、いともたやすくしぼんでいくのがわかる。
自らの臆病を呪うローラの耳に、スヴェトラーナの氷のような声が届いた。
「……よく、見ていなさい」
「何を……ですかぁ……?」
訝りながらも、彼女が示した方向を顔を向ける。
直後、ローラの意識は衝撃のあまり真っ白になった。

「あ……あぅ……!!」

声にならない叫びが、喉の奥から漏れる。身体が、ガクガクと小刻みに震えた。

――なんてことを。こんな仕打ちが……許されていいはずがない。

上着を切り裂かれ、絨毯へと組み伏せられたスラーヴァ。
露になったその背中の一面に、大きな刺青が隙間なく広がっていたのだ。
古傷に埋め尽くされた彼の体にただ一つ、鮮やかに浮かび上がる羽ばたく白鷺。
唐草を縁取った美しい紋章が、どこまでも残酷に白い肌を汚していた。
あまりの痛ましさに絶句するローラに、マンシュタインは満足げな笑みを向ける。
「美しいだろう? ズィルバーライヤー……マンシュタイン家の家紋でね」
誇らしげに自慢する彼の口調に、嫌悪を通り越してもはや吐き気すらおぼえる。
顔を背けるローラに頓着することなく、マンシュタインは確信を込めて言い放った。
「これを刻まれるということは、即ち我が家の財産ということだ。
 つまり、当主たる私のものということなのだよ」
反論しようとローラが口を開くよりも早く、押し殺したスラーヴァの声が響く。
「俺は……誰のものでもない……っ!」
屈辱と憤怒、さらに確固たる意志をも込めて、彼はマンシュタインを鋭く見据えていた。
「君も強情だな、スタニスラーヴァ」
わざとらしく溜息をつきつつ、考えこむ素振りをするマンシュタイン。
ややあって、彼はさも残念そうに口を開いた。
「仕方ない……そこまで言うならば、私も少し譲歩しなければな」
「譲歩だと……?」
片方の眉を吊り上げて不信の意を表すスラーヴァに、鷹揚に頷く。
「君が私のものとなると改めて誓うならば、このお嬢さんは勿論……
 スヴェトラーナにも自由を与えようじゃないか」
「何……だって」
マンシュタインの言葉に、スラーヴァの双眸が大きく見開かれた。

3.許されざる自己犠牲

気味が悪いほどに静まり返る部屋。
長い沈黙を破ったのは、搾り出すようなスラーヴァの声だった。
「本当だろうな……?」
もし偽りならばただではおかないという、苛烈な意志の表れであろう。
凄みを利かせながら、スラーヴァはマンシュタインを見上げる。
「俺がこの首を縦に振れば……ローラとスヴェトラーナを解放してくれるんだな?」
ゆっくりと立ち上がった彼の顔からは、一切の感情が失われていた。
そんなスラーヴァを眺めやり、マンシュタインが目を細めて頷く。
「――ああ、約束しよう」
「……わかった」
僅かな逡巡の後、とうとう彼は首を縦に振った。
底知れない苦渋の中に悲愴なまでの決意を込めて、スラーヴァはスヴェトラーナとローラを救おうとしている。
永遠に闇へと閉ざされるであろう、自らの運命と引き替えに。

確かに、これで二人は解放されるのかもしれない。
でも、そのためにスラーヴァが犠牲になるのでは意味が無いではないか。
彼自信が許しても、ローラは断固としてそれを許したくはなかった。

「だめですぅ!」
「――ローラ」
喉元の刃も忘れて叫ぶ彼女に、スラーヴァが驚いた顔を向ける。
涙目になるほどに感情を昂ぶらせ、ローラはさらに声を張り上げた。
「そんな事をしたらぁ……わたしぃ、舌噛んで死んじゃいますからねぇ!!」
訴える様子が、よほど鬼気迫っていたのだろうか。スラーヴァが、目を丸くして息を呑むのが見えた。いつの間にか溢れ出した涙が、自分の頬を伝っていくのがわかる。
それでもなお、ローラの勢いは止まらなかった。
「自分を大切にできない人がぁ、何かを守るなんてできないんですぅ!
 だからぁ、スラーヴァは絶対にそんな事しちゃ駄目なんですよぉっ!!」

スラーヴァは盾だ。他者を守り続ける存在であることを、常に自らに課している。
自己犠牲とは、その誓いに対する究極の裏切りではないか。
自分が消えてしまっては、もう誰も守れないのだ。

ローラの糾弾に、スラーヴァが苦しげに表情を歪ませる。
その時、背後のスヴェトラーナが縛られたローラの腕を強く捻り上げた。
「まだ、懲りないのかしら?」
「……あぅ」
苦痛に呻くローラの口に猿轡をかませ、冷酷な声で威圧するスヴェトラーナ。
「今、あなたに勝手をされると困るのよ。お願いだから、黙っていて頂戴。
 それとも……少し痛い目をみないとわからない?」
首筋の短剣に力が加えられようとした瞬間、スラーヴァの声がそれを制した。
「やめろ、スヴェータ」
スヴェトラーナが手を止めたのを確認した後、彼はそのままマンシュタインの方へと向き直った。
態度の端々に激しい嫌悪を滲ませ、射るような視線で睨みつける。
「俺が欲しければ、くれてやる。好きにすればいい……」
ありったけの憤懣をぶちまけるかのように、スラーヴァはそう吐き捨てた。
酷薄な笑みが、マンシュタインの顔中に広がる。
「いい子だ」
「……彼女と、話をさせてくれるかい」
そう言って、スラーヴァはローラを顎で示した。
もはや自分の優位が揺るぎ無いことを確信しているのだろう。マンシュタインも、ことさらに彼の申し出を否定しようとはしなかった。
肯定の意を確かめた後、そのままローラの元へスラーヴァが歩み寄ってくる。

「ローラ」
「……!」
名前を呼ばれて彼の顔を見た時、ローラは思わずどきりとした。
その声と表情が、あまりに穏やかであったからだ。
目を見開き、塞がれた口から声にならない叫びをあげる彼女に、スラーヴァは申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめん、君の言う通りだ。俺には、何も守ることができなかった。
 それでも――できることはもう、これしかないんだ」
怒りも、絶望も、屈辱も。
全ての激情を自らの奥底へ沈めて、受け入れてしまった紫紺の瞳。
その静けさが逆に悲しみを誘い、ローラの視界が再び涙で歪む。
一瞬スラーヴァは困った表情となったが、直後、何を思ったのかにっこりと笑った。
こんなに晴れやかな彼の笑顔を、今までに見たことがあっただろうか。
驚くローラに、スラーヴァがどこまでも優しく語りかける。
「君たちと過ごした半年余りは、夢のように楽しかったよ。
 ずっと旅を続けていたかったけど――それも、もう終わりみたいだ。
 俺のことは……どうか、忘れて欲しい」
涙が、止まらない。言葉を返せないもどかしさに、全身が小刻みに震えていた。
別れるには早過ぎる――こんな終わり方は、あんまりではないか。
くぐもった嗚咽を漏らすローラを、限りない慈愛と愁いを秘めたスラーヴァの双眸が見つめる。
「本当にすまない……そして、ありがとう」
それが、彼の別れの挨拶だった。
もう一度ローラに微笑みを向けた後、スラーヴァは背後のスヴェトラーナの方へと視線を移した。
「スヴェータ」
迷いのない真摯な態度で、彼は妹と向かい合う。
「――これで、今までの俺の罪が濯げるなんて思っちゃいない。
 でも、お前が耐えた苦しみなら……俺もそれに耐えてみせる。
 自由になって……どうか、今までの分も幸せになってくれ」
対する、スヴェトラーナの返事はない。
ローラには、背後にいる彼女の表情を窺うことはできなかったが、どちらにせよ、スラーヴァにとってそれは重要ではないのだろう。
言い終えると、彼は踵を返してマンシュタインへと向き直った。
一転して、その表情は厳しく引き締められている。

「別れは、済んだかね?」
何の感慨も浮かんでいない様子で、マンシュタインが投げやりに問う。
「ああ。……彼女たちを解放してくれ」
毅然と言い放つスラーヴァに、彼は片眉を吊り上げて淡々と答えた。
「その前に、やることがある」
マンシュタインの瞳が、加虐的かつ残酷に光る。
「跪いて、誓え。自分は永遠に私のものだとな」
一瞬顔を歪ませたスラーヴァだったが、直後、押し殺したように一切の表情を消した。
無言のまま、その場に膝をつこうと腰を屈める。
この儀式が終わってしまえば、もう決して後戻りはできない――

――だめぇ!!

心の中でローラが絶叫した時、部屋が衝撃に揺れた。
「――!?」
複数の足音が慌しく廊下を走ったかと思うと、次いで金属が激しくぶつかり合う音が高らかに響いてくる。
その場にいた全員が不意を突かれて硬直する中、ローラの耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。
「あーもう面倒だ……ヴィヴィオ、やれ!」
「るせぇ、てめーが指図すんじゃねー!
 大体なぁ、今回は地味に潜入するんじゃなかったのか!?」
「見つかっちまったもんは仕方ねぇだろ」
「あれだけ派手にやっといて、見つからねぇ方がおかしーんだよ!」
「もう、二人とも喧嘩してる場合じゃ……!」
「んなこたぁわかってるっ!」
やけくそ気味な呪文の詠唱に続いて、男たちの苦鳴が喧騒に混じる。
程なくして、分厚い扉が豪快に蹴破られた。
塞ぐものの無くなった入口の向こうに三つの人影を認めて、ローラの瞳が今度は歓喜のために潤む。
「……よう、待たせたな」
砕かれた破片が舞う中、先頭に立ったシローがどこまでも不敵に笑った。

4.激流と化す盾

救援に駆けつけた三人の登場で、マンシュタインの護衛たちは浮き足立った。
主を後方へと下げ、慌しく戦闘の態勢を整えようとする。
そんな中、ただ一人冷静さを失わずにスヴェトラーナが動いた。
「意外と早かったのね……でも、こちらの優位は変わらないわ」
冷酷な微笑を浮かべ、ローラに突きつけたままの短剣を誇示する。
シローたちを牽制しつつ、彼女は空いている方の手で愛用の鞭を構えた。
「そうとも限らんぜ」
張り詰めた空気に、シローの不敵な含み笑いが響く。
「――食らえ!」
彼は左腕の手甲を外して右手に取ると、そのまま、それをスヴェトラーナの顔面めがけて投げつけた。
「何のつもり? こんな子供騙しに!」
飛来した手甲を鞭で難なく受け流したスヴェトラーナだったが、直後、それは軌道を変えて再び彼女を襲った。
「なっ……!?」
暗殺者として鍛えられてきた彼女も、この攻撃には意表を突かれたのだろう。
手甲に結び付けられていた一本のロープが、スヴェトラーナの腕を絡め取る。
「……しゃあ!」
その隙を見逃すことなく、シローが一気に距離を詰めた。
逆腕に結んだロープを引いてスヴェトラーナの体勢を崩し、強引にローラから引き離す。
「しばらく大人しくしてやがれ」
短く言い放つと、シローは彼女の右手首を容赦なく捻った。
ぼきり、という鈍い音を立てて、あっさりと骨が折れる。
「ぐっ!? 何て、デタラメな男なの!」
痛みに顔を歪め、悪態をつくスヴェトラーナ。
“プロ”たる彼女には、定石からまったく外れた彼の戦い方は到底理解できなかったのだろう。
そんなスヴェトラーナを一瞥し、シローが憮然として呟く。
「悪かったな」

ローラが解放されると同時に、スラーヴァもまた走り出していた。
護衛の男が彼を捕らえようと動くものの、ヴィヴィオが魔法の電撃を放って片っ端からそれを阻む。
仲間のもとへと辿り着くと、キャロラインが短剣で手の縄を切ってくれた。
「……スラーヴァ」
今にも泣き出しそうな彼女に向けて、何でもないよと微笑みを浮かべるスラーヴァ。
こうやって助けに来てくれた、それだけで充分に嬉しい。
「受け取れ、スラーヴァ!」
シローの声とともに、愛用のシャムシールが風を切って投げ渡される。
「……ありがとう!」
それをしっかりと受け止めると、スラーヴァは会心の笑みとともに剣を鞘走らせた。
足元の絨毯を蹴り、こちらへと向かってくる護衛たちへと立ち向かう。
親友の魂の篭った武器。それさえあれば、この程度の敵は恐るるに足りない。
瞬く間に、二人の男が苦鳴をあげて倒れた。

「……これで、残りは……!」
眼前の敵が無力化したことを確かめ、周囲に視線を巡らせるスラーヴァ。
すでに護衛たちは全員床へと伏しており、スヴェトラーナも右手を押さえたまま動かない。
ただ一人、マンシュタインが恍惚とした表情で自分を眺めていた。
押し殺していた嫌悪感が、背中をあわ出たせていく。
「素晴らしい。これほどの力とは……ますます取り戻したくなったよ」
「まだ、そんな事を……!」
もう、あの男を守るものは何もない。
眼光鋭く睨み据えるスラーヴァに、マンシュタインは幼子に諭すかのような口調で語りかけた。
「よく考えてみたまえ、スタニスラーヴァ。君を最も愛しているのは、この私なんだ」
「黙れ。その口を塞いでやる」
憎々しげに言い捨て、剣を強く握り締めるスラーヴァ。
対するマンシュタインは虚ろな瞳で、卑屈な笑みに顔を引きつらせていた。
「君は……いや、君たちは外界の穢れに染まるべきではないのだよ。
 だからこそ――十六年前、あの者たちから救い出したのだから」
「? どういう……ことだ」
「君たちの両親は、実に平凡で取柄のない夫婦だった。
 あのような薄汚い環境で美しい双子が育つのかと思うと、我慢がならなくてね」
訝しがるスラーヴァを、陰鬱な狂気を湛えてマンシュタインが見つめる。
うわ言のようにくぐもった呟きが、忌まわしい響きをもって耳に届いた。
「考えた末、私は村に配下を送り、施しと称して葡萄酒を振舞った。
 その中の“たった一本”が“たまたま”古くなっていて、
 善良な若い夫婦が中毒で命を落としたとしても、誰もその不自然を疑わなかったよ。
 こうやって、私は残された兄妹を正当に“保護”したわけさ……」
「な……!!」

スラーヴァの全身を、激しい衝撃が貫く。
もし、それが本当ならば。両親を殺したのは、この男ということか。
偶然などではなかった。
自分と妹に与えられた地獄の運命。全ては、仕組まれていたのだ。

「親子の情など、我が崇高なる使命の前には取るに足りない。
 それだけ、私は二人を愛しているのだよ……わかってくれるだろう?」

縋るように視線を向けてくる仇を見て、魂の奥底で何かが弾けた。
どす黒い闇が湧き上がり、瞬く間に意識を塗りつぶしてゆく。
激しく渦を巻き荒れ狂う――それは、凍りつくほどに熱い憎悪の念。
暗く低い呟きが、喉の奥から漏れた。
「……てやる」
「何だね? よく……聞こえなかった」
マンシュタインの歪んだ醜い笑みが、最後に残っていた僅かな理性をも断ち切る。
――この男だけは、生かしておかない。
「殺してやる……っ!」
殺意が奔流となり、スラーヴァの全身を駆け巡っていた。
果てなき憎しみに導かれるまま、呪いの叫びとともに剣を構える。
「貴様だけは――地獄の果てまで苦しんで死ね!!」
スラーヴァがマンシュタインへと襲いかかった時、その視界に予想外の人影が飛びこんできた。
「――!?」
驚きのあまり足を止める彼の前で、シローが疾風迅雷の動きで仇へと肉迫する。
次の瞬間には、呆然と立ち尽くすマンシュタインの胸を手刀が深々と貫いていた。
「……だ、そうだ。――あばよ」
短い呟きとともに、潜り込ませた指先を捻りながら抜く。
返り血がシローの上半身に降り注ぐと同時に、マンシュタインはその場へ崩れ落ちていた。

5.再会する二人

仇が血の海に沈むのを見て、スラーヴァはようやく我に返った。
口から赤い泡を吐き出し、全身を小刻みに痙攣させているマンシュタインの姿を認め、剣を手に一歩踏み出す。
「シロー、どいてくれ」
「何をする気だ?」
「――その男は、俺がこの手で殺す」
殺気を漲らせた視線で、間に立ち塞がるシローを睨む。
シローは軽く眉を動かすと、未だ鮮血の滴る指で自らの背後を示した。
「放っておいても死ぬさ。心臓をブチ抜いてやったんだからな」
「これは俺の問題だ。自分の因縁は、自分で決着をつける!
 ……そこをどけ、シロー!」
取り合おうとしない彼に苛立ち、激情の赴くままにスラーヴァが怒鳴る。
今の自分を動かすのは、復讐の二文字のみ。それで手を汚す事になっても、一向に構わなかった。

「どかないと……」
スラーヴァがさらに一歩踏みこんだ時、シローの右拳が顔面を容赦なく打ち据えた。
頭を強く揺さぶられて一瞬意識が飛び、剣が手から離れて絨毯へと落ちる。
鉄の味が口中に溢れ、血が唇の隙間から流れる――おそらく、歯に当たって切れたのだろう。
痛みは、少し遅れてやってきた。
「きゃぁ!?」
「スラ―ヴァ!?」
「……シローさん!」
次々にあがる驚きと非難の声にも全く頓着することなく、悪びれない態度でシローが口を開く。
「あー悪ぃ。野郎相手には手加減がきかねえんだ。
 前はもう少し優しくしちまったが……あの時は女だと思ってたからな」
言葉の意味を理解できずに怪訝な顔を向けると、シローは頭をかきながら少しだけ躊躇うような表情を見せた。
やがて、自らの左腕を覆っていた長い手袋を脱ぎ捨てる。
露になった彼の前腕部に真っ直ぐ走る、古い刀傷。見覚えのあるその傷痕に、スラーヴァは目を大きく見開いた。
「この傷……まさか」
弾かれたように、シローの顔を凝視するスラーヴァ。
思えば、初対面からどこかで見た顔のような気がしていた。
亡き友グレンに似ているためだと思っていたのだが――どうやら誤りだったらしい。
パーティを組むずっと前から、自分は彼を知っていたのだ。

――勝手なこと抜かすな! 命をどうこうする権利なんて、お前にはねえんだよ!

かつて、平手打ちとともに浴びせられた言葉と、それを発した少年の面影が、シローにぴたりと重なる。

同時に、八年前の記憶が鮮明に浮かび上がっていた。
炎に包まれたマンシュタインの屋敷から、自分を救い出した旅の老戦士。
脱出の際、彼は崩れた天井の下敷きとなって落命し、スラーヴァの生命は同行者であった少年の手に託されたのだ。
ショックのあまり茫然自失のスラーヴァを、少年は厳しく叱りつつも手を引いてくれた。
そうやってセレナイトへ向かう途中に盗賊と戦闘になり、少年は左腕に深手を負ったのである。
シローの傷は、まさにその時のものに違いない。先を急ぐあまりロクな応急処置も行えず、そのために痕が残ってしまったのだろう。

養父母に引き取られた後、スラーヴァはあの老戦士がヴィクトール・ハインガットという名であった事を知るに至ったが、少年の素性はとうとうわからずじまいだった。
話によると、彼は役目を終えてすぐ、名前も告げずに教会を後にしたらしい。
その――もう一人の恩人が。今、自分の目の前にいるのだ。
「シロー……君、だったのか……」
これが人の縁というものなのだろうか。
巡り合わせの妙に驚嘆するスラーヴァを、ばつが悪そうな表情でシローが眺める。
「恥ずかしいからな、できれば忘れていたかったんだが。
 ま、俺のこたぁどうだっていい。――それより」
そう言うと、シローは落ちたシャムシールを拾い上げた。
スラーヴァの方に向けられた顔が、突如として険しく歪む。
「こいつは何だ?」
手の中のものを、真っ直ぐにスラーヴァへと突き出すシロー。
かつては親友の、そして今は自らの、かけがえのない剣。
一日たりとも手入れを欠かした事のない刀身、そこに刻まれた銘がスラーヴァの目に留まる。

――“ヴィエーチル・グレン”

“風”を意味する言葉と、亡き友の名。
在りし日のグレンの姿が脳裏に浮かぶと同時に、怒りに満ちたシローの叱責が叩きつけられた。
「あのクソ野郎を斬って、それで満足か!?
 笑わせんな! そんな軽い誓いなら、ここで捨てちまえ!!」
憑き物が落ちるように、心に渦巻いていた憎悪が晴れる。
自らの役割、グレンへの想い。それを――はっきりと思い出していた。
「シロー……」
呆然と呟くスラーヴァに、シローが再び口を開く。
「てめえは要なんだよ。――ちったあ自覚しやがれ」
素っ気無い態度の中に込められた信頼。それが、スラーヴァの胸を熱く満たす。

続いて、ヴィヴィオがこちらに歩み寄ってきた。
視線の先には、既に息絶えたマンシュタインの骸。それを一瞥した後、伏目がちに顔を向ける。
「あんな奴、お前がわざわざ手を汚す価値もねぇよ……」
「ヴィヴィオ……」
黙って状況を見守っていたローラとキャロラインも、次々と口を開いた。
「そうですよぅ。スラーヴァの、そんな顔……わたしぃ、見たくないですぅ」
「うん、私もそう思う……。いつものスラーヴァに戻って……、ね?」
「ローラ……キャロライン」
仲間たち一人一人の顔を、スラーヴァは改めて眺めた。
今ほど、自分が幸福だと思ったことはない。

「――ありがとう……みんな」

自然と、一筋の涙が頬を伝った。

6.最初に護りたかったもの

零れた涙を指で拭った後、スラーヴァはゆっくりと振り向き、スヴェトラーナの方へ近付いてきた。
「スヴェータ」
澄み渡った紫紺の瞳で、気遣うように声をかけてくる。
左頬が赤黒く腫れ上がっているにも関わらず、その顔はあまりに静穏だった。
視線は、先ほどシローに折られたスヴェトラーナの右手首へと向けられている。
「大丈夫か」
「……気安く、話しかけないで」
兄の顔を、スヴェトラーナは正視することができなかった。
同じ日、同じ場所に、同じ顔を持って生まれた自らの半身。
それが……今は、こんなにも遠い。自分が決して得られなかったものを、スラーヴァは全て手にしている。
8年前のあの時から、彼は決して届かない鏡像となったのだ。
だからこそ、憎んだ。どうしようもなく、妬ましかった。
そうすることで、自分がもっと汚れていくことも――わかっていた筈なのに。
唇を噛みしめるスヴェトラーナに、どこまでも謹厳な口調でスラーヴァが語りかける。
「お前の言うことは正しかったよ。
 俺は何一つ守れやしない無力な存在で……多くの人々を傷つけてきた。だから……」
淀みなく言った後、彼は床に放り出されたままのスヴェトラーナの短剣を拾い上げ、彼女の左手にそれを握らせた。
そして包み込むように両手を添えると、そのまま短剣を自らの裸の左胸に突きつける。
「自分の罪から、決して逃げたりはしない」

覚悟と決意を込めた言葉と行動。
状況を見守っていたスラーヴァの仲間たちが、即座に色めき立つ。
それを制したのは、意外にもシローだった。
「――待て」
「……でも」
不安げに見上げる少女たちの視線にも、彼は黙って前方を見据えている。
しかし、その瞳にはスラーヴァをむざむざと死なせはしないという強い意思が感じられた。
鋭い眼光を向けてくるシローから目をそらすように、スヴェトラーナはもう一度兄の顔を見る。
「どういう、つもり……?」
対するスラーヴァに、死を恐れている様子は感じられなかった。
それだけではなく。あれほどまでに溢れていた憎悪も、絶望も、後悔すらも――全ての負の感情が消え失せたかのように、まったく揺らぎがない。
彼の表情は、まるで清浄に湛えられた湖のようでもあった。
「八年前、俺はお前を見殺しにした。
 それどころか……暗闇に一人で取り残したことすら、気付くことができなかった。
 許してくれとは……言わないよ」
「……」
「でも……こうすることでお前の憎しみが少しでも減らせるのなら。
 俺の存在が、お前にとってに苦しみにしか成り得ないのなら。
 このまま、心臓を貫いてくれ。……俺は、それを受け入れる」
短剣を握り締めた手が、小刻みに震える。
真っ直ぐに見つめてくる兄の瞳。その限りない暖かさが、スヴェトラーナを恐れさせた。
「そして、今度こそ――俺は、永遠にお前を守り続けるよ」
追い討つような言葉が、さらに心に強く響く。
違う。私はこんなものを求めていたわけじゃない。
そんな感傷は、もうとっくに捨て去った筈。
「――やめて」
堪えきれず、悲鳴のような呟きが漏れる。
「そんな顔で、私を見ないで! 私は……!!」
もう、失ったものは取り戻せはしないのだ。
光の中を歩く事も叶わず、闇の中で暗い愉悦へと浸る事も許されないのならば――いっそ。
スラーヴァの手を振り払い、短剣すら投げ捨ててスヴェトラーナは走り出していた。
屍となった主や、気を失って倒れ伏す護衛たちの横を通り過ぎ、部屋の一番奥に位置する暖炉の前へと立つ。
家紋の下に僅かに穿たれた窪みに、懐に潜ませていた着火の魔石を放り込むスヴェトラーナ。
程なくして、大きな振動が館全体を揺さぶり始めた。

「――スヴェータ!?」

異状にスラーヴァが叫んだが、もう遅い。
八年前に失脚して以来、日の当たらない裏の世界へ生きる道を選んだマンシュタインは、拠点をすぐに放棄できる手段を常に確保し続けていた。
この館に仕掛けられているのもその一つで、たった一個の魔石を引金に、建物をまるまる炎に包み込むことが出来る。
部屋の至る所から火の手が上がり、瞬く間に壁や天井へと燃え広がっていく。
本来は暖炉の抜け道から脱出できるようになっていたが、スヴェトラーナは密かにこれを破壊して塞いでいた。
いつかは、こうしようと決めていたのだ。

――もう、疲れてしまった。終わりにしよう、全てを。

熱に煽られ、既に天井の一部は崩れようとしている。
火の粉と破片が舞い落ちるその真下へ導かれるように、スヴェトラーナはゆっくりと歩を進めた。
もうすぐ、炎が自分を無に還してくれる。やっと、解放されるのだ。
振動はさらに大きくなり、頭上の軋みはとうとう限界に達しようとしていた。
灼熱を伴う紅蓮の顎が大きく開くと同時に、瓦礫がスヴェトラーナ目掛けて降り注ぐ。

――さようなら。

この世に別れの言葉を告げて目を閉じた時、轟音とともにスラーヴァの絶叫が聞こえた。
スヴェトラーナは構わず破壊に身を任せようとしたが、望んでいた衝撃はいつまで経っても訪れない。
いつの間にか、彼女は絨毯の上に横になっていた。
訝りながら、顔を上げて周囲を見る。
「あ……」
眼前に広がる光景に、スヴェトラーナは絶句して凍りついた。

火の粉のはぜる音とともに燻り続けている、崩れた天井の一部。
床に積み重なるその瓦礫の下に――スラーヴァがうつ伏せの姿勢で倒れていた。
戦士として鍛え上げてもなお細身の身体。その裸の背中を、灼熱を帯びた破片が容赦なく押し潰そうとしている。
言葉もなくへたり込んだままのスヴェトラーナを、スラーヴァが僅かに見上げた。
スヴェトラーナを庇った際に炎に炙られたのだろう、左半面に大きな火傷を負い、もとは白かったはずの肌が、見るも無残に赤く焼けただれている。
紫紺の双眸にスヴェトラーナの姿を映し、彼は苦痛に呻きながらも無理に笑ってみせた。
「スヴェータ……無……事か……? 良かった……」
苦しげに掠れた声が、絶え絶えになった息の下から聞こえる。
そこに含まれた安堵の響きと、どこか満足げな表情が、スヴェトラーナの心をかき乱した。
「どうして……」
困惑に震える呟きに、うわ言のような兄の言葉が重なる。
「初めて……ることが……できた」
「え?」
自分を見つめるスラーヴァの瞳は、もはや焦点が定まっていない。
それでも、彼は慈愛に満ちた微笑みを満面に浮かべて囁いた。
「……ずっと……お前を、守りたかったんだ……」
最後にそう言い残し、ゆっくりと目を閉じるスラーヴァ。
彼の表情は、どこまでも安らかだった。

「馬鹿……言わないで……」

遠い昔に失ったはずの涙が、堰をきったように溢れ出す。

「誰が、そんな事してくれって頼んだのよ……スラーヴァ……兄さん……」

7.因縁を砕く光

あまりの出来事を前に、ローラたちはしばらく誰一人として動くことができなかった。
その膠着を、喉の奥から搾り出すようなヴィヴィオの声が砕く。
「冗談じゃあ……ねぇ」
彼の視線の先には、倒れ伏して動かないスラーヴァの姿。
全身を震わせながら、ヴィヴィオは声を限りにして叫んだ。
「誰一人、欠けちゃいけないんじゃなかったのか!?
 そのお前がいなくなってどうすんだよ! ――この馬鹿野郎っ!」
そのまま、弾かれたように駆け出していくヴィヴィオ。
「どけよっ! 邪魔なんだよっ!」
スラーヴァの傍らで呆然と座りこんだままのスヴェトラーナを、乱暴に突き飛ばして怒鳴る。
「吹き荒べっ! ……『フィンブル』!!」
早口で呪文を唱えると、ヴィヴィオは火の勢いを増しつつある瓦礫に向けて氷の矢を乱射した。
しかし、それらは次々と表面の熱で蒸発してしまう。時間稼ぎにしかならないのは、誰の目にも明らかだった。
これでは到底、スラーヴァを救えそうにもない。
「――畜生、どうすることもできねぇのかよおっ!」
ヴィヴィオの絶叫が、部屋全体にこだまする。

仲間が死に瀕しているというのに、何もできない無力。
自分の腕の中で震えるキャロラインとともに、ローラもまた、それを噛み締めていた。
奥歯が、カタカタと音を立てるのがわかる。
――このまま、見ている事しかできないのだろうか?
「ヴィヴィオ、そこをどけぇ!」
意識が絶望に支配される中、闇雲に呪文を放ち続けるヴィヴィオの横に、いつの間にかシローの姿があった。
その両腕には、彼の武器でもある手甲“武甲オサフネ”が鈍く光を放っている。
シローはヴィヴィオを後ろに下がらせると、燃え盛る瓦礫の前に立って呟いた。
「ジジィの真似をしようなんて、五十年早いんだよ」
スラーヴァの顔を一瞥し、ゆっくりと呼吸を整えるシロー。
それが次第に深く、鋭くなっていくとともに、右と左の武甲に一つずつ埋めこまれた石が、徐々に輝きを増していく。
錬金術でヴィヴィオが錬成した精霊石が、シローの息吹と同調して活性化しているのだ。
やがて、彼の両腕はまばゆい輝きへと包まれる。

「あの時とは違う――人間ってのは、前に進むもんだ!!」

雄叫びとともに、シローは精霊石の力を一気に解放した。
両の拳から放たれた光が一閃し、炎もろとも瓦礫を瞬く間に吹き飛ばす。
軽くなった障害物の下から、シローはスラーヴァを難なく引きずり出した。
その身体を一目見て、彼の眉が大きく顰められる。
「ちっ……! ――おい、キャロライン!!」
怒鳴り声に、ローラの腕の中で怯えていたキャロラインがびくりと体を震わせた。
「は……はい!」
「ボヤボヤしてるんじゃねえ、呪文だ! 
 ……このままじゃ、外に出るまで保たねえぞ!」
切迫したシローの叫びが、少女たちの耳朶を打つ。
止まっていた時間が動き出したかのように、目の前のことが現実として鮮明に意識に届いてきた。
――そう、こんなところで立ち尽くしている場合じゃない。
スラーヴァを抱えてこちらに走るシローに、ローラとキャロラインも駆け寄っていく。
「あぅ……」
ぐったりと動かないスラーヴァの姿を間近で見た時、あまりの惨状にローラは気が遠くなりそうだった。
細かい瓦礫の破片が無数に素肌に食い込み、さらに全身に打撲と火傷を負っている。
――特に、顔の左半面と背中の状態は酷い。
生きているのが不思議なくらいで、辛うじて息はあるものの、いつそれが途絶えてしまうかもわからなかった。
キャロラインも、これほどまでの重傷を診た経験はないのだろう。
彼女は一瞬息を呑んだが、すぐに表情を引き締めて治癒の魔法へと集中した。
聖句の詠唱とともに、蒼白だったスラーヴァの顔に少しだけ赤みがさす。
しかし、まだまだ予断を許さない容態であることは疑いようがない。

キャロラインが必死になって治療を続ける中、一際大きな振動が一帯を襲った。
「きゃあ!?」
崩れた壁や天井から炎が吹き出し、さらにその勢いを増していく。
もはや、一刻の猶予もない。このままでは、全員が館と運命をともにすることになるだろう。
「ち……思ったよりも火の回りが早いな」 
舌打ちとともに視線を泳がせるシロー。
この部屋に窓はなく、唯一の脱出口である入口から続く廊下は、すでに火の手が回っていた。
絶望的な雰囲気が漂い始めた時、ヴィヴィオが決然として前に進み出る。
「――俺が、氷の呪文で道を開いてやるよ。
 気休めかもしれねえが……このまま突っ込むよりはマシだろ」
「ああ、頼む」
頷きを返すシローに軽く手を上げると、彼は次にローラの方を振り向いて言った。
「悪ぃが、ローラも手伝ってくれ。一人より、二人の方が確実だからな」
「は……はいですぅ!」
仲間たち全員が、この状況において出来る限りのことをやろうとしている。ローラも、最後まで自分の全力を尽くそうと誓った。そう、まだ諦めるには早過ぎる。
先日身につけたばかりの、氷の矢の呪文を頭の中で一生懸命に反芻していると、ふと、ヴィヴィオが部屋の片隅へと歩いていくのが見えた。
そこに蹲ったままのスヴェトラーナに、彼は横を向きながら右手を差し出す。

「――お前も来いよ」
すっかり憔悴しきった様子で、驚きの表情を向けるスヴェトラーナ。
ヴィヴィオは、彼女の顔を見ようともせずに強い口調で言い放った。
「勘違いすんなよ。俺はお前を許したわけじゃねーからな。
 でも、お前が死んだら……あいつのやったことが全部、無駄になるんだ。
 そんな事は……俺が許さねえ」
「ヴィヴィオくん……」
ローラが様子を見守る中、スヴェトラーナは逡巡するように沈黙した後、ゆっくりと自分の足で立ち上がった。
それを見て、ヴィヴィオも差し出していた手を引っ込めながら踵を返す。
「これ以上は、ここでは無理です……。
 早く、安全なところに出ないと手当ても……」
治癒の魔法をかけ続けていたキャロラインが、疲労の色濃く呟く。
スラーヴァの怪我を考えるとそれでも充分とは到底言えなかったが、脱出までの時間は確保できたはずだ。
シローは大きく頷きを返すと、スラーヴァを肩に担ぎ上げて全員に声をかけた。
「わかった、行くぞ」
出発しようとした時、何かを思い出したように足を止めるシロー。
すぐ後ろに立つスヴェトラーナに、彼は肩越しに声をかけた。
「――殺ったのは俺だ。いつでも相手になるぜ」
「……」
対する彼女は、一言も発せずにただ俯いている。
ローラは、意味深な二人のやりとりをわけもわからず見つめていた。
「おい……何やってるんだよっ!」
そんな中、先頭に立つヴィヴィオが振り向きながら怒鳴る。
ローラは慌てて前に出ると、彼の横に並んで呪文の詠唱を始めた。
熱気と炎が渦巻く廊下に、魔法で創り出した氷の矢を次々に撃ち込んで火勢を弱めていく。
開かれた突破口に、ローラたちは全速力で飛びこんでいった。


ようやく外に出た時、天はすでに白みかけていた。
脱出の直後、館が完全に炎に包まれたかと思うと、轟音とともに呑みこまれ崩れる。
主の歪んだ欲望とともに潰えた、その居城の最期を全員が見届ける中、東の空から上りかけた日の光がローラの顔を照らし始めていた。

一番長かった夜が、今――静かに明けようとしている。


〔執筆者あとがき〕

スラーヴァとスヴェトラーナ、悲運の双子のエピソード後編です。
物語の序盤から覗かせていた伏線を一気に収束させた今回は、この第一部を通して、書き上げるのに一番力を要した話でもありました。
展開が試練の連続であったことは勿論ですが、それ以上にキャラクターたちの心の動きが激しかったためです。

その中で、シローとローラの二人の存在は大きな支えになりました。
希望を捨てずに前向きであり続けた彼らの強さが、暗闇に一筋の光明を添えてくれたと言っていいでしょう。
さもなければ、物語はもっと救いの無い結末を迎えていたはずです。

とはいえ、まだ全ての決着がついたわけではありません。
スラーヴァは傷つき倒れ、ヴィヴィオも未だに葛藤を続けています。
パーティが再び明るさを取り戻すためには、あと幾つかの壁を乗り越えなくてはいけないのです。

続く第10話で、いよいよ第一部完結となります。
よろしければ、あともう少しだけお付き合いください。