“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第10話
乗り越え、進む者たち
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/08


1.休息の守護者 5.置き忘れた涙
2.孤独な迷宮 6.蘇る五芒星
3.塗り替えられた証 7.終わりのない道
4.自由の標
〔執筆者あとがき〕


1.休息の守護者

窓の外には、雲一つない青空が悠々と広がっていた。
穏やかに流れる風がカーテンを揺らし、ベッドに横たわるスラーヴァの銀髪を優しく撫でていく。
その様子を、キャロラインは一人、黙って眺めていた。
自分の方を向いているスラーヴァの顔、左頬から顎にかけての部分は包帯で覆われており、真新しい白さが目に痛々しい。
両の瞼は固く閉ざされたまま、ピクリとも動かなかった。

スラーヴァがこうやって眠り続けて、もう三日になる。
自殺を図った双子の妹スヴェトラーナを庇い、酷い怪我を負ってしまったのだ。
炎が燃え盛る館で、灼熱の瓦礫に埋もれたスラーヴァの身体。
彼が救出された時、顔と背中は熱に炙られて焼けただれ、さらに無数の打撲と骨折で全身がボロボロの状態だった。まだ息があったのは、まさに僥倖としか言いようがない。
今だかつて見た事がないほどの重傷を前に、キャロラインは自分が持つ医療と治癒魔法の全てを施した。
挫けそうな心を自ら叱咤し続け、ようやく消えかけた生命の灯を取り戻すことができたのだ。
必死の治療の甲斐あって傷口は徐々に塞がりつつあり、蒼白だった顔色も少し赤みがさすようになってきている。
おそらくは、もう死の危機は乗り越えたはずなのだが――それでも、スラーヴァが目を覚ます気配は一向になかった。

――このまま、永遠に眠ったままなのではないだろうか?

湧き上がる不吉な予感が、キャロラインの心に重く暗い影を落とす。
その時、部屋の扉を小さくノックする音が響いた。
「セシリアじゃ。……入ってもいいかの?」
「はい。……どうぞ」
キャロラインが答えると同時に、セシリアとバティストが部屋に入ってきた。
「スラーヴァは……変わりないかの」
「はい……」
背中の傷が酷いため、うつ伏せに横たえられたスラーヴァの姿を見て、二人の表情が曇る。
「何とか、目を覚ましてくれると良いのですけどね……」
バティストが、沈痛な面持ちで呟いた。
先日聞いたところによると、彼はセシリアの知人というだけではなく、スラーヴァの家であるこの教会を管理している人物でもあるらしい。
同じくセシリアの知己であったスラーヴァの養父母が亡くなった後、何かにつけてその世話をしてきたとも耳にしている。
スラーヴァを実の孫のごとく可愛がっているセシリア同様、バティストにとっても彼は息子も同然の存在なのだろう。
それを思い、キャロラインは申し訳なさから深く俯いていた。

「……ごめんなさい……」
呟くとともに、膝の上に置いた拳を強く握り締める。
「キャロラインちゃんが謝ることじゃないぞぃ。
 むしろ、こんなに親身になってもらって感謝しておるくらいじゃからの。
 あの怪我を、よくここまで治してくれたものじゃ……のぅ、バティスト?」
セシリアが気遣うように言うと、バティストもまた頷いた。
それでも、心は晴れない。
三日手を尽くしてなお、スラーヴァの傷を治療しきれていないことも落ちこむ原因の一つではあったが、真の理由は他にあった。
首を横に振りつつ、キャロラインは消え入りそうな声を搾り出す。
「いえ、私のせいなんです……私が、スラーヴァを遠ざけるようなことをしたから。
 だから、悪い人たちに捕まって……あんなことに」
スラーヴァの背負った過去を、受け入れる事ができなかった自分。
彼は居場所を失って教会を出て行き、ローラとともに捕らえられ――そこで、妹の盾となって倒れた。

――どうして、わかってあげられなかったのだろう。

常に誰かを守ろうと心を砕き、自らが血を流す事も厭わなかったスラーヴァ。いかなる過去があろうとも、そんな彼の本質が変わるわけではないのに。
自分の心の狭さが、結果としてスラーヴァを死の淵へと追い込んでしまったのだ。
あの時、もっと別の接し方ができていれば、彼がここまで傷付く必要はなかったのかもしれない。
罪悪感と後悔が、キャロラインを塗り潰す。

そんな彼女の耳に、セシリアの穏やかな声が響いた。
「――スラーヴァは幸せじゃのぅ」
「え……?」
驚いて顔を上げると、自分を見つめるセシリアと目が合う。そこには、どこまでも優しげな微笑みがあった。
キャロラインに大きく頷いてみせた後、彼女はそのままスラーヴァへと視線を移す。
「ここに引き取られたばかりの頃、あの子は心をすっかり閉ざしてしまっていてのぅ。
 同じ年頃の子供たちが薄着で外を遊び回っているというのに、家に篭りきりじゃった。
 養い親がたまに外に連れ出しても、体の傷を隠すために
 夏でも長袖の服を着込んでの。それで、随分と苛められたようじゃ……」
遠い過去を覗きこむように目を細めて、セシリアが静かに言う。
「――でも、今は良い友達が沢山できたからの。
 キャロラインちゃんのように、あの子のために怒り、泣いてくれる本当の仲間がの。
 この婆には、それが一番嬉しくてのぅ」
「そんな……私は、何も……。
 今だって……こうやって見ている事しかできないんです」
「それでいいんじゃよ」
首を傾げるキャロラインに、力強く頷くセシリア。
その瞳は、スラーヴァに優しく向けられている。
「色々なものを守ろうと、ずっと戦い続けてきたんじゃ……
 気が済むまで、ゆっくり休ませてやってくれるかの?」
「はい……」
キャロラインが複雑な心境で答えると、セシリアは念を押すように微笑った。
「キャロラインちゃんたちが傍にいるから、
 スラーヴァは安心して眠っていられるんじゃよ」
その言葉に、はっとしてスラーヴァを見る。静かな呼吸を繰り返す彼の表情は、限りなく安らかだった。
キャロラインの肩にずっと圧し掛かっていたものが、少しだけ軽くなる。

「セシリア様……そろそろお時間が」
穏やかな微笑とともに沈黙を保っていたバティストが、手にした懐中時計を眺めつつセシリアに声をかけた。
「おお、もうそんな時間じゃったかの」
「どこか、出かけられるんですか?」
「フロースパーに戻るんじゃよ。スラーヴァのことは気がかりじゃが、
 ワシにも仲間がおるでな、ずっとここにいるわけにもいかないからのぅ。
 ……だから、後はキャロラインちゃんに任せてもいいかの?」
真っ直ぐに自分を見つめる漆黒の瞳。
込められたその思いを受け止め、キャロラインは大きな声で承諾した。
「はい……任せてください!」
「――じゃあ、お願いさせてもらおうかの」
セシリアの目が優しい形に細められたかと思うと、彼女はバティストを伴ってゆっくりと踵を返す。
部屋を後にするその背中に向けて、キャロラインは深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございました……!」

――今が、スラーヴァにとって休息の時だというのなら。私は、その安らぎを守ろう。
彼が目を覚ました時、笑顔で迎えてあげられるように。

キャロラインの胸に、小さな決意がそっと生まれていた。

2.孤独な迷宮

セシリアたちが去ったのを物陰から見送ると、ヴィヴィオは入れ違いに部屋の前に立った。
物音を立てないように気を配りつつ、僅かに開いた扉の隙間から中の様子を窺う。
相変らず昏睡状態にあるスラーヴァと、彼を必死に看護するキャロラインの姿。
その光景は、この三日間で何一つ変わってはいない。

ごく小さな溜息を一つ漏らし、ヴィヴィオは扉から一歩後退った。
足取りと同様、心までもが重い。底無しの暗い沼に、どっぷりと嵌りこんでしまったかのようだ。
そんな彼の脳裏で、延々と繰り返されている二つの場面がある。スラーヴァがスヴェトラーナを庇って瓦礫の下敷きとなった時と、シローが彼を救い出した時のことだ。
瀕死のスラーヴァが見せた安らかな笑顔が、そしてシローの咆哮が――胸に強く刻み込まれている。

――ずっと……お前を、守りたかったんだ……。

その生命をもって、かつて見殺しにしてしまった妹の盾となったスラーヴァ。

――人間ってのは、前に進むもんだ!!

未熟だった過去を乗り越え、自らの手でその決着をつけたシロー。

二人とも、八年前から続く因縁から逃げることなく立ち向かい、そして断ち切ってみせた。
そんな彼らが眩しく思えると同時に、一人だけ取り残されたような激しい焦燥感がヴィヴィオを襲う。
自らが抱える過去に、未だに答えを出せないでいる自分。
死に瀕した仲間を前にしても、何もできなかった自分。
立ち止まったままの弱さが、無力が、ただただ胸を締め付けていくばかり――望む出口の光は見えず、その方角すらわからない。
いたたまれなくなり、ヴィヴィオは静かにその場から離れていった。


ややあって、今度は隣の部屋の扉を叩くローラの姿があった。
「シローさん、ちょっといいですかぁ?」
「……おう、開いてるぞ」
中から返事があったのを聞き届けると、そのまま部屋の中に入る。
正面に、机に向かっているシローの背中が見えた。
振り向きもせずに何かの作業に没頭している様子に興味をおぼえ、背後からひょいと覗きこむ。
「何してるんですかぁ?」
「見てわからないのか、絵を描いてるんだよ」
答えつつも、シローの視線は机上の紙から動かない。
細い筆を滑らかに走らせているそこに、大きな獣が描かれていた。
幼い頃に書物で見ただけの、“虎”という猫に似た生き物。
数千年前には数多くいたらしいが、現在ではほとんど絶滅しかけているというその獣が、黒一色の濃淡のみで見事に表現されている。
気高さと美しさ、野生の躍動感までが、ローラの目に飛びこんでくるようだ。
「ふえ……強そうな虎さんですねぇ」
「俺も実際見た事はないがな」
シローは、この絵が“水墨画”というものであることを教えてくれた。
彼の先祖は西方に住む独特の文化を持つ民族で、これもそこで伝わっている技法らしい。本来は煤を膠(にかわ)で固めた“墨”というものを使うらしいが、なかなか手に入らないので黒インクで代用しているそうだ。
説明を聞きながら、ローラは仲間の特技に感嘆していた。
こう言っては悪いが、普段あまり芸術に縁がなさそうなシローである。
その彼に、このような繊細な技術があったことは正直言って驚きを禁じえなかった。
「それにしてもぉ……シローさんって意外と器用ですよねぇ?」
「意外は余計だ。一流の男は多芸なんだよ」
ローラの言葉に、やや憮然としてシローが答える。
「そうなんですかぁ?」
首を傾げてみせた時、彼は筆を止めてローラの方を見た。
「……で、どうしたんだ? 用があるから来たんだろ?」
問われて、本来の目的を思い出す。表情を引き締め、ローラは話を切り出した。
「……あ、はいですぅ。ええと……ヴィヴィオくん、見ませんでしたぁ?」
「あいつなら、ご覧の通りここにはいないぞ」
「わかってますよぅ。さっきから、どこにもいないんですぅ。
 それでぇ、行き先とか聞いていないかなって思ったんですけどぉ……」

あの屋敷を脱出してからというものの、ヴィヴィオの様子がおかしいことには気付いていた。
仲間から距離を置き、一人でずっと何か考えこんでいる様子で、荒れるでもなく、ひたすら己の中で葛藤を繰り返しているようなその姿は、見ていて胸が締めつけられる。
そんな彼が黙ってどこかへ出かけてしまったということは、少なからずローラを不安にさせた。
シローを頼ったのは、ヴィヴィオと同室であるだけではなく、年長の男だからだ。同年代で、女の自分に言えないことでも、彼になら言えることがあるかもしれない。
しかし、シローは黙って首を横に振るだけだった。
あからさまに落胆の表情を浮かべるローラに、軽く肩をすくめながら続ける。
「そこまでガキじゃねえだろ。放っときゃ、そのうち戻ってくる」
「それは、そうなんですけどぉ……」
「また落ち込んでるみたいだから――か?」
考えを見抜かれて目を丸くすると、やはりな、とシローが呆れたように溜息をついた。

「だったら、なおさら放っておけ」
「……そんなぁ」
「結局は自分で何とかするしかないんだ。待つしかないだろ」
確かにそれは正論かもしれない。しかし、同時に随分と冷たい物言いではないだろうか。
自分たちはただの他人などではなく、苦楽をともにする仲間であるはずだ。
「でもぉ……何か手助けにはなれるかもしれないじゃないですかぁ。
 ヴィヴィオくん、一人でとても苦しそうにしてるんですぅ……」
ローラがそう食い下がった時、シローの漆黒の瞳が真っ直ぐに彼女を見た。
そこにあるのは、迷いのない意志と、仲間への信頼の光。
「あいつに必要なのは俺じゃない」

――まだガキだが、男だ。
短くそう言って、シローは再び机に向かう。
ローラは彼が紙に筆を走らせる音をしばらく聞いていたが、やがてその背中に軽くお辞儀をすると部屋を後にした。
シローが何を伝えたかったのかは、はっきりとわかっていた。
――そう、わたしたちはパーティだ。
シローにはシローの、ローラにはローラの、それぞれにしかできない役割がある。
自らのそれを果たすべく、ローラは教会を駆け出していた。
この街のどこかにいるはずの、ヴィヴィオを探して。

3.塗り替えられた証

ローラが部屋を出てしばらく後、シローはスラーヴァの部屋を訪ねることにした。
虎の絵も描き終えてしまい、他にすることがない。
「入るぜ」
軽いノックとともに扉を開けると、ベッドに眠るスラーヴァと、それに付き添うキャロラインが目に映る。
「――シローさん」
そう言って振り向いた顔には、疲労の色が濃い。
無理もない。この三日間、キャロラインはほとんど休んではいないのだ。
ローラやヴィヴィオが交代を申し出ても、彼女は頑として受け入れようとはしなかった。
それが自らの役目であり、スラーヴァに対する償いなのだと考えていたのかもしれないが、思い詰めた様子で看護を続ける様は、見ている者にも悲愴な痛ましさを感じさせる。
余計な気を遣わせないよう、シローはつとめてさりげなく声をかけることにした。
「変わりないか?」
「はい……今のところは、落ち着いているみたいです」
「そうか」
スラーヴァは静かな寝息をたてており、その表情に苦痛の影は見えない。
顔色が良くなってきたことといい、確かに回復の兆しは出ているようだった。

内心で安堵したシローの目の前で、キャロラインがスラーヴァの包帯を慣れた手つきで取り替え始める。
包帯がほどかれていくのをしばらく眺めていたシローだったが、やがてスラーヴァの背中が露になるとそこに視線を留め、呟きを漏らした。
「――流石に、傷が残ったな」
妹の身代わりに、燃え盛る瓦礫の直撃を受けた背中。
もとは白かったはずの肌は、赤黒くただれたまま無残な傷を晒していた。
いかに神聖魔法が癒しの力に優れていようと、治せる範囲には自ずと限界がある。
スラーヴァの場合、生命を維持するので精一杯だったのだろう。
「はい……顔も、たぶん」
沈痛な面持ちのキャロラインが、それでも作業の手は止めずに答える。
背中と同じく、炎に炙られた左半面もまた火傷の状態は酷い。
おそらく、痕が消えることは決してないだろう。
「まあ、命があるだけマシさ」
いくら外側が美しかろうと、死んでは何もならない。
消える寸前にあったスラーヴァの生命の灯が失われるのを食い止め、ここまで回復させたのは紛れも無くキャロラインの力によるものだ。
もっと誇って良いとも思うが、彼女の抱えている負い目がそれを到底許しはしないこともよくわかっていた。
事実、シローの言葉もキャロラインの心の慰めにはならなかったようだ。その表情は、未だ深い愁いの中にある。
「でも……私がもう少ししっかりしていれば。
 ここまで酷い状態にはならなかったかもしれないのに……」
キャロラインにしてみれば、スラーヴァの傷痕が残るのは自らの治療技術の敗北に他ならないのだろう。
ある一面から見ると、確かにそれは正しい。しかし、シローはまた別の視点で捉えていた。

「――そう捨てたもんでもねぇだろ」
「え?」
驚いて顔を向けてくるキャロラインに、口の端を持ち上げて笑いかける。
「あの趣味の悪い刺青が、綺麗さっぱり消えてる」
「あ……」
キャロラインが、小さく声をあげてスラーヴァを見た。
かつて背中を呪わしく覆い尽くしていた、白鷺の刺青。ローラの話では、あれはマンシュタインの家紋であったらしい。
“生きた人形”そして“所有物”であった過去の象徴たるそれを、スラーヴァがどれだけ忌み嫌っていたかは想像に難くない。
彼が肌を人目に晒すことがなかったのも、虐待によって負った全身の古傷と、あの刺青を隠すためだったのだろう。
でも、そんなものはもう背中のどこにも見当たらない。最愛の妹を庇って負った新しい傷によって、塗り替えられたのだ。
「――だから、これで良かったんだよ」
勲章にこそなれ、屈辱などではない。少なくとも、シローはそう思う。
「はい……」
答えるキャロラインの瞳にも、少しだけいつもの明るい光が戻る。
しかし、それとは裏腹に彼女の顔色は蒼白に近づいてきていた。よく見ると、椅子に座っているにも拘らず、身体が微かにふらついている。
このままでは、キャロライン自身がいずれ保たなくなるであろう。
「――大丈夫か?」
「見た目ほど、傷そのものの状態は悪くないですから……」
「そうじゃなくて、お前がだ。少し休んだ方がいいんじゃないか」
「私は……平気ですよ」
気丈に強がってみせてはいるものの、既に限界に達していることは疑いようもない。
有無を言わせぬよう、シローは語気に力を込めて言い放った。
「いいから休め。お前が倒れたら、誰がこいつの面倒見る」
「……」
なおも渋った様子の彼女に、今度はそっと口を開く。
「今なら、俺が見ててやるから」
キャロラインはしばらく迷った後、とうとう首を縦に振った。
「わかりました……それじゃあ、お願いします……」
「おう」
席を立ってシローに頭を下げると、よろめきながら部屋を出ていく。
彼女の背中を見送り、シローは軽く息をついた。
眠り続けるスラーヴァに向けて、ぼやくような呟きが漏れる。

「――いつまで寝てやがる? 面倒ばかり増やしやがって」

口ではそう言いながらも、シローの心は不思議と清々しかった。
窓から緩やかに流れてくる風が、身に涼しく心地よい。

「まあ、いいか。――お疲れさん」

八年前、マンシュタインの屋敷から逃げ出してきた一人の少女の顔を、心に思い浮かべる。
『他の子たちを助けて』と訴えながら、ヴィクトールの腕の中で息を引き取った――救えなかった幼い命。
助けたスラーヴァの顔は記憶に埋もれても、自らの未熟と無力が招いた苦さだけは忘れようもなかった。
そして。マンシュタインは死に、スラーヴァの刺青は消えた。
ヴィクトールから受け継いだ決意。その肩の重みが、ようやく少し軽くなった気がする。
どんなに取り戻せないものが多くても――再び、自分たちは前へと進まなくてはならない。
長かった戦いの日々が一つの区切りを迎えようとしているのを感じながら、シローは一人黙祷した。

4.自由の標

表通りから少し奥に入った路地。その物陰に隠れるようにして、スヴェトラーナは教会を見上げていた。
ニ階でただ一つ開かれた窓。スラーヴァは今、あの部屋にいる。
三日が過ぎた今も、兄は死の淵を彷徨っているのだろうか。確かめる手段は、今の彼女にはなかった。
何をするでもなく、こうやって部屋の窓を眺め続けている。

「――いい若い娘が、こんな路地裏にこそこそしているのは感心せんな」
突如背後から響いてきた低い声に、スヴェトラーナはびくりと身体を震わせた。
咄嗟の反応で振り返り、壁を背に身構える。
視線の先に立っていたのは、長い黒髪を伸ばした中年の男だった。
上背が高く骨太で、身ごなしにも全くといって良いほど隙が無い。不敵ともいえる表情に、鷹を思わせる黒瞳が鋭く光っている。
それにしても、如何に考え事をしていたとはいえ、暗殺者であった自分がこうも簡単に後ろを取られるとは。
目の前の男は一体何者なのだろうか。無言の威圧感に、緊張が走る。
「……あなた、誰?」
「ガウェイン・シュトラウス。――ただの流れ者だ」
固い声で誰何するスヴェトラーナに、飄々と名乗る。
警戒をさらに強めると、男――ガウェインは口の端を歪めて笑った。
「人の名前を訊いておいて、名乗らないような不作法者にも見えんが?」
揶揄するような軽い口調の中にも、どこか逆らえない力が篭っている。あらゆる抵抗は無駄に終わるだろう。
そう確信し、スヴェトラーナは肩の力を抜いた。
どうせ、今更惜しむものなど何もない。悟ってしまうと、いっそ清々しいくらいだ。

「――スヴェトラーナ。スヴェトラーナ・サヴィン……」

口にしてから、自分のフルネームが思いのほか懐かしく響いたことに気付く。
よくよく考えてみると、こうやって名乗る機会など久しく無かった。
両親が死に、兄がクナーゼ家の養子となって以来、サヴィンの姓を継ぐ者はスヴェトラーナただ一人。
今ではこの名前こそが、最後に残された家族との絆にも思える。
闇の中に蠢くことを選んだ自分に、まだそんな資格があればの話ではあるが。

「隠れていないで、会いに行けば良かろう」

次いでガウェインが発した言葉はあまりに唐突だったが、同時に核心を突いていた。
驚きと動揺を隠すべく、表情を固くするスヴェトラーナを見て、彼は片眉を僅かに動かしながら事もなげに続けた。
「何、そんな風に見えただけだ。違ったなら謝るがな」
どうやら、この男に隠し事は出来ないらしい。
溜息とともに、スヴェトラーナは呟きほどの声を漏らした。
「……会わせる顔が、ないもの」
得体の知れない中年男に対して、驚くほど従順な態度を取っている自分。
それを自覚してもなお、スヴェトラーナは話すことを止めようとは何故か思わなかった。
「全てを失ってしまった。私のもとには、何一つ残っていない……」

ヨハネス・マンシュタイン――両親を殺し、スヴェトラーナたち双子を弄んだ仇。
あの男に対して憎しみ以外の感情が芽生えたのは、いつの頃からだっただろうか。
彼にとって、自分がお気に入りの人形に過ぎなかった事は嫌になる程わかっている。
でも、他にスヴェトラーナを求めてくれる人間がいなかったのも、また事実であったのだ。
八年前のあの日、スラーヴァを失ってからは。

こんなものが愛などである筈が無い。しかし、それ以外に縋るものを持てなかった。
暗殺者としての腕をどんなに磨いても、ヨハネスを殺して逃げる気にはとうとうなれなかったのだ。
囚人となることを選んだのは他ならぬ自分自身――認めたくなくて、スヴェトラーナは逃避した。
自分が得られなかったものを全て手にしていた兄、スラーヴァ。
彼への憎悪を募らせることで、辛うじて自分を保っていた。

でも、憎むべき者はもういない。
ヨハネスの死によって、心を支えた柱は悉く砕かれてしまった。
せめてスラーヴァに殺されたのであったならば、失った隙間を新たな憎しみで埋めることができたかもしれない。
しかし――その命を奪ったのは兄ではなく、彼の仲間だった。

――殺ったのは俺だ。いつでも相手になるぜ。

ヨハネスの返り血で身を染め、仇となった男はあの時、確かにそう言ったのだ。
おそらくは、スヴェトラーナの思惑を理解していたに違いない。
わかっていて、彼はスラーヴァへ憎悪の矛先が向くのを防いだ。自らが、手を汚すことによって。
逃げ道が塞がれたことを悟り、楽になろうと死を求めても、今度は他ならぬ兄が自らを盾にしてまでそれを阻止する。
そのせいで、スラーヴァを憎み続けることはおろか、死を選ぶことさえできなくなってしまった。

生きる理由と、死の安息。双方を奪われて、一体何ができると言うのだろう?
思考が迷宮に沈みかけた時、スヴェトラーナの耳にガウェインの低い呟きが届いた。
「今の自分には何もない――か」
目を細めて空を見上げた後、ガウェインはスヴェトラーナの方へと首を巡らせる。
「――人はそれを、“自由”とも呼ぶな」
彼の言葉に、はっと目を見開くスヴェトラーナ。
脳裏に、真摯な表情で自分を見つめるスラーヴァの顔が浮かぶ。

――自由になって……どうか、今までの分も幸せになってくれ。

兄がこう言った時、随分と都合の良い言い分に思えた。
今更、幸せになどなれるはずがない。それはスラーヴァの甘い願いに過ぎないのだと。
しかし、真実は違った。結局自分は、閉じ込められたふりをしていただけなのだ。
縛めの鎖も、檻の鍵もとっくに壊れていることを知りながら、あえて囚人の身分に甘んじていた。

そう、双子の明暗を分けたのは、決して与えられた運命ばかりではない。
兄のように自ら道を切り拓く勇気が、スヴェトラーナにはなかった。たった、それだけの話だ。

視界が、急に開けたような錯覚。
憑き物が落ちるように、長年の心の澱が洗い流されていくのを感じる。
スヴェトラーナはその場に膝をつくと、僅かな荷物の中から手巾と筆記用具を取り出した。
ペンで布に走り書きした後、首から下げていたペンダントを手に取る。
双子の背中にあるものと同じ、白鷺の家紋が刻まれたそれは、ヨハネスにかつて手渡されたものだった。
金の鎖に文字を書いた手巾をしっかりと結びつけると、スヴェトラーナはそっと教会へと歩み寄り、戸口の脇にペンダントを置く。
それだけで戻った彼女に、ガウェインが興味深げに視線を向けてきた。
「何をしたんだ?」
「ちょっとした置き手紙のようなものよ。……見てもらえるかはわからないけれど」
「このまま行くつもりか」
「言ったでしょう。会わせる顔がないって」
言葉はさっきと同じ。でも、その口調は自分でもはっきり違いがわかるほど晴れやかだ。
いつの間にか、微笑すら浮かべている。
対するガウェインもまた、口の端を軽く持ち上げて笑んだ。
「そうか」
常に刃の如く鋭かったその瞳に、僅かに暖かな光が混じる。
「それもまた、お前が選んだ道だ」
「……ええ」

短くそう答えると、スヴェトラーナはガウェインと別れて歩き出した。
ペンダントに託した言葉は“スヴァボーダ”――“自由”を意味する単語。
スラーヴァに伝えたい。もう、決して縛られはしないと。

思いが兄の元へ届くことを願いながら、どこまでも青い空を見上げる。
まだ、どこに辿り着くかはわからないけれど。
この風の導くまま、まずは一歩ずつ進んでいこう――

5.置き忘れた涙

水の流れる音が、清澄な調べとなって緩やかに耳に届く。
整然と整えられた用水路。その水面が太陽を反射して輝いている様子を、ヴィヴィオは遠い瞳で眺めていた。

水。癒しを司る、生命の象徴。絶えず流れ続け――浄化するもの。
どの要素を取っても、悉く自分からかけ離れている。
ヴィヴィオの本質は焔だ。激情を秘め、灼熱で全てを焼き尽くす。
そう――自分には、壊すことしかできない。

錬金術とは、それに対する精一杯の抵抗であり、そして最大の逃避だった。
壊したもののを新たに作り直すことで自らの罪を清算しようという、甘い幻想――すなわち、家族の生命を再びこの手で生み出すという夢。
必死に縋っていた目標が、ただの自己満足と家族の魂への冒涜に過ぎなかったという事実は、少なからずヴィヴィオを打ちのめしていた。
結局、かけがえのないものを失った痛みから目を背けていただけ。
自分が、あまりに薄情で身勝手な生き物に思える。

壊すだけで、何一つ生み出せない自分。
家族が死んでも、泣く事すらできない自分。
仲間の危機にただ立ち尽くし、今もなお、見ているだけの自分。
――どこまでも、嫌になる。

暗い溜息とともに、そっと自らの膝を抱える。
水路の脇に植えられた木が作り出した影の中に、ヴィヴィオは直に腰を下ろしていた。
薄暗さと、地面から伝わる冷たい感触。それが、逆に心を落ち着かせる。
まばゆく光を放っている水面に目を細めていると、ふと背後から間延びした声が聞こえた。
「あぅ〜、やっと見つけましたぁ」
力なく見上げたそこに、嬉しそうに息を弾ませたローラの姿。
「ここにいたんですねぇ。探しちゃいましたよぉ」
屈託のない笑顔が、今はやけに遠く眩しい。
「……」
「ふぇ、お水が綺麗ですねぇ。……隣、座ってもいいですかぁ?」
ヴィヴィオが無言で場所を少し空けると、ローラはそこにそっと腰を下ろした。
しばしの沈黙の後、やや遠慮がちに口を開く。
「そのぉ……ヴィヴィオくん。またぁ……悩んだり、してませんかぁ?」
「……」
「ええっとぉ……わたしじゃあ、頼りにならないかもですけどぉ。
 それでもぉ、お話くらいは聞けると思うんですぅ」
俯くヴィヴィオの視界の端に、優しい眼差しのローラが映った。
「わたしたちはぁ、パーティなんですよぉ。
 だからぁ、一人で抱え込まない方がいいと思いますぅ。
 重い荷物でもぉ、みんなで分けて持てば軽くなりますよねぇ?
 悩み事も、同じじゃあないでしょうかぁ?」
そこにあるのは、混ざり気のない誠意。澄んだエメラルドグリーンの双眸は、内に秘めた強さをも感じさせる。
彼女ならば、受け止めてもらえるかもしれない。
長い逡巡の末、ローラの顔を正面から見る。
「……ちっとばかし、長い話になるぜ」
彼女がにっこりと頷いたのを確かめると、ヴィヴィオはゆっくりと話し始めた。
いつか、スラーヴァにも語った――自らの罪を。


「――じゃあ、ヴィヴィオくんはぁ。
 ご家族のためにぃ、悲しんで泣けないことが辛いんですねぇ?」
話がほぼ終わりに近付いた頃、これまで黙ったまま相槌を打ち続けていたローラがふと口を開いた。
「何の償いにもならねぇことはわかってる。
 でも……それすらできねえ自分が嫌になるんだ。
 こうしている間にも、どんどん記憶は風化しちまう。 このまま逃げ続けて……
 いずれ、最初から無かったことにしちまうんじゃねえかって……」
――それこそが、怖い。
ヴィヴィオが目を伏せた時、ローラの声が緩やかに響いた。
「わたしぃ、子供の頃に犬を飼っていたんですぅ」
「……は?」
あまりに唐突な話題転換に、思わず目が丸くなる。
訝るヴィヴィオに、ローラはどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「白くて大きい子でぇ、わたしは大好きだったんですけどぉ……
 ある日、馬車に轢かれて死んじゃったんですぅ」
「……」
「わたしぃ、悲しくてずっと泣いてましたぁ。
 一週間くらいそうしていたでしょうかねぇ。
 今でも思い出すと辛いんですけどぉ……もう、涙は出ないですぅ」
言葉を区切ると、高く空を見上げる。
懐かしむように流れる雲を眺めた後、もう一度ヴィヴィオの方を振り向いて言った。
「思うんですけどぉ……悲しみが薄れていくのってぇ、
 決して悪いことじゃないんじゃないですかねぇ。
 ずっと泣いてばかりいてもぉ、亡くなった命は戻ってこないですしぃ。
 それよりはぁ、また前を見て歩けるようになる方がいいじゃないですかぁ?」
「前に進む……か。あいつも、そんな事言ってたな……」
スラーヴァの、愁いの中に清冽な信念を湛えた微笑みが、心の中に浮かぶ。
ローラも、頷きながら明るい笑顔を向けてくる。
「そうですよぉ。それに、ヴィヴィオくんは薄情なんかじゃないですぅ。
 きっと……忘れてただけなんですよぉ」
「?」
ヴィヴィオが首を傾げると、ローラはしかめっつらを作りながら言った。
「ヴィヴィオくんってぇ、こういう顔で我慢ばかりしてたじゃないですかぁ。
 だからぁ、いつの間にか涙をどこかに置き忘れてきちゃったんですよぉ」
あんまりな顔真似に閉口しながらも、ヴィヴィオはその言葉を強く噛み締める。
優しさが浸透するとともに、心が揺らいでいく感触があった。
「大切なのはぁ、悲しいって思う気持ちと向き合うことだと思いますぅ。
 それがぁ、ご家族への本当の償いになるんじゃないでしょうかぁ」

やがて、溢れたものがヴィヴィオの頬を伝う。
それは――覚えている限り、彼が初めて人前で流した涙だった。

ヴィヴィオは、ようやく答えを手にすることができたのだ。
――長きにわたって置き去りにしていた、大切な忘れ物とともに。

6.蘇る五芒星

しばらくして、ヴィヴィオは自らの腕で涙を拭った。
ローラと目を合わせないように、平静を装ってさりげなく声をかける。
「――そろそろ、戻るか」
泣き顔を見せてしまったことが、我に返ると途方もなく恥ずかしい――不思議と、嫌な気分はしないのだが。
居心地の悪いヴィヴィオをよそに、ローラは何事もなかったかのように応じた。
「そうですねぇ。スラーヴァの様子も気になりますしぃ」
「だな」
答えながら、その心遣いに内心で感謝する。
しかし、立ち上がって足早に歩き出した時、口をついて出たのはこんな言葉だった。
「……誰にも言うなよ」
我ながら、素直じゃない。
「わかってますよぅ」
そんな気持ちを知ってか知らずか、ローラはいつも通りの、どこか呑気な口調で応じる。

やがて、二人は教会へと辿り着いた。
扉から中へ入ろうとしたヴィヴィオの視界の端に、小さなきらめきが映る。
見ると、そこに金の鎖のペンダントが落ちていた。
「……ん?」
拾い上げて、手に取ったそれをじっくりと眺める。
随分と高価そうな、意匠の凝った品物で、鎖には小さな布が結びつけられていた。
「どうしたんですかぁ?」
ヴィヴィオの手元を覗きこんだローラが、驚いたように目を丸くする。視線は、ペンダントに刻まれた模様に釘付けになっていた。
手渡しながら、ヴィヴィオもそれが意味するものに思い当たる。
白鷺に唐草を縁取った紋章。それは、スラーヴァの背中に刺青として刻まれていた、忌々しいあの地方領主の家紋に違いない。
「これってぇ……もしかしたらぁ……」
持ち主が誰なのか。考えられるのはたった一人しかいなかった。
だとすれば、これはスラーヴァに対する何らかのメッセージではないだろうか。
ヴィヴィオがローラと顔を見合わせて頷いた時、扉からキャロラインが勢いよく飛び出してきた。
「ローラ! ヴィヴィオくん!」
「あ、キャロラインちゃん。ただいまですぅ」
「そんなに慌ててどうしたんだ? まさか……」
ただならぬ様子に、嫌な予感がよぎる。
しかし、次に彼女の口をついて出たのはそれとは全く逆の知らせだった。
「スラーヴァが……目を覚ましたの!」
ここ数日の疲労も吹き飛んだかのように、顔を輝かせるキャロライン。
朗報を聞き、再びローラと顔を見合わせる。心底嬉しそうに笑う彼女の表情に、実感が湧きあがった。
それを確かめ、ヴィヴィオは二人と一緒に教会の中へ入っていった。


真っ白に閉ざされていた視界が、徐々に形を取り戻そうとしていた。
慣れたシーツの肌触りと、頬に当たる枕の感触。確かにここは、自分のベッドに違いない。
同時に、ついさっきまでいたはずの場所の記憶が、急速に失われていく。
あれは一体どこだったのだろう。既に漠然とした印象しか残っていないが、暖かく、明るいところだった。
懐かしい人たちの気配も、いくつか感じていたかもしれない。
そういえば、最後に見たのはキャロラインの嬉しげな泣き顔ではなかったか――
おぼろげで渾然とした意識の中、シローの声が耳に届く。
「よう、気がついたか」
視線を上げると、仲間の姿がはっきり像を結んだ。
壁にもたれて腕組みしつつ、笑みを浮かべるシローを見て、スラーヴァはようやく自分が一度目覚めていたことを思い出す。
キャロラインの顔を見た後、まどろむように再び意識を失いかけていたのだろう。
上体を起こそうとするが、流石に身体が言う事をきかない。そればかりか、声すら発することもままならなかった。喉が、すっかり渇いている。
遅れて、激しい痛みが背中から全身を貫いた。
「ぁ……」
小さく声を上げ、力なく突っ伏すスラーヴァに、シローが苦笑する。
「無理すんな。お前、三日も寝たままだったんだから」
どうやら、思っていた以上にダメージは深刻であったらしい。
脳裏に気絶する直前の光景が展開されると同時に、不安が頭をもたげた。
――そうだ。自分が今こうして倒れているならば。他の仲間たちは――そして、スヴェトラーナは。
「……みんなは……?」
必死の思いで声を絞り出し、シローへと問う。
「安心しろ、全員ピンピンしてらぁ。……妹もな」
シローは、事もなげにそう言うと軽く手を振ってみせた。
「館を出たところまでは、一緒だった」
「そうか……」
安堵の溜息とともに、全身の力を抜く。
――まずは、生きていてくれればそれでいい。
その時、部屋の扉が大きな音を立てて開いた。
「スラーヴァ!」
自分の名前を呼びながら一度に駆けこんでくる、ヴィヴィオ、キャロライン、ローラの三人。
シローが言った通り、特に大きな怪我などはなさそうだ。改めて、ほっとする。
「気がついたんですねぇ。うにぃ、良かったですぅ……」
「苦しくない? まだ、無理したら駄目だからね」
次々に声をかけてくれる少女たちに、大丈夫だよと笑うスラーヴァ。
そんな中、ヴィヴィオがすっと前に進み出てきた。表情は険しく、眉間にはきつく皺を寄せている。
「この――馬鹿野郎が!」
怒鳴り声が、耳を震わせた。
制止しようとするローラやキャロラインの手を振り切り、ヴィヴィオは一気にまくしたてる。
「お前がぶっ倒れてどーすんだよ!
 二度とあんな真似してみろ、ぜってーに許さねーからな!」
その迫力に圧倒され、スラーヴァが目を丸くしていると、彼は一息ついて声の調子を落した。
「五人揃って、初めて完全なんだろ……お前が、それを壊すんじゃねーよ。
 ――心配、かけやがって……」
言葉の裏にこめられた思いが、暖かな痛みを伴って心に染み入る。
「ごめん……」
詫びると、ヴィヴィオは照れたようにそっぽを向き、そのまま背を向けた。
入れ違いに、今度はローラが遠慮がちに声をかけてくる。
「あのぉ……スラーヴァ、これぇ……」
そう言って、彼女は鈍く金色に輝くペンダントを差し出した。
ヘッドの中央にはマンシュタインの紋章――誰のものかは、言わなくてもわかる。
「玄関の脇にあったんですぅ。たぶん、スヴェトラーナさんが……」
おずおずと言うローラに頷きで返しつつ、スラーヴァはそっとそれを受け取った。
鎖に結ばれた布を解き、書かれた文字に見入る。

“スヴァボーダ”――『自由』。
たった一言、そこにはそう書かれていた。

自分を憎み続けた妹が、どんな結論に至り、どのような道を選んだのか。今のスラーヴァには知る術はない。
しかし――スヴェトラーナが書き残したその文字には、確かに生きる意志が息づいていた。
離れてはいても、いつかまた、必ず出会える筈。同じ場所から生まれた半身としての、確信があった。
「……本当に、ありがとう……みんな……」
ペンダントをしっかりと握り締め、スラーヴァはもう一度仲間たち一人一人の顔を見る。
――戻ってくることができて、良かった。

カーテンを揺らす風が、目を閉じたスラーヴァの髪を優しく撫でて通り過ぎていった。

7.終わりのない道

窓からは、午後の日差しが明るく降り注いでいた。
読みふけっていた本を閉じ、ヴィヴィオは椅子に座ったまま大きく伸びをする。
台所に面した食卓。そこは、彼のちょっとしたお気に入りの場所だ。
「――何だ、またお勉強の時間か?」
開いた窓の外を眺めて疲れた目を休めていると、背後からシローが声をかけてきた。
ほとんど日課となっている市街の散策から戻ったのだろう。
「まーな」
軽く答えて振り返ると、彼は何故か肩からタオルをかけており、服も着替えている。肩まで下ろした黒髪が、少し濡れていた。
時間を考えると、風呂上りというわけでもなさそうなのだが。
「……で、そういうお前は何やってたんだよ」
訝るヴィヴィオに、シローは後ろ手に持っていた竹製の笊(ざる)を差し出す。
そこには、見るからに活きの良さそうな川魚が人数分並んでいた。
「女どもが忙しそうなんでな。ちと食材を調達してきた」
「……買ったのか?」
ふと嫌な予感が脳裏をかすめ、恐る恐る問いかけてみる。
案の定、シローの答えはヴィヴィオの想像を裏切らなかった。
「馬鹿言え。こんなもの、そのへんにいくらでも泳いでらぁ」
「それって、密漁っていうんじゃねーのか……」
「水路の魚を獲るな、なんて法律はねえよ」
ヴィヴィオの呆れ顔にも全く頓着することなく、事もなげに言い放つシロー。
溜息をつきかけた時、視界の端に包丁を手に立つ彼の姿が映った。
ぎょっとして、思わずそちらの方を見る。
「ちょっと待て。お前が捌くの、それ?」
「他に誰がやるんだ? キャロラインは奴につきっきりだし、
 かといってローラにやらせるのは問題だろ」
確かに、ローラの料理の腕はお世辞にも誉められたものではない。
菓子の類は器用に作ってみせるのだが、どういうわけか家庭料理となると勝手が違ってくるらしい。
普段ならばキャロラインが台所を取り仕切っているのだが、これまたシローの言う通り彼女は現状身動きが取れず、その次に無難な腕を持つスラーヴァもあの通りだ。
おかげで、ここ数日はずっとローラが悪戦苦闘を続けていたわけである。
そんな彼女に魚を捌けというのは確かに無理があるが、それでもシローなら適任かというと甚だ疑問だ。
「食えるんだろーな……」
低く呟くヴィヴィオに、シローは包丁を軽く振りながら意地の悪い笑みを浮かべた。
「俺を誰だと思ってる。まぁ、何事も経験ってこった。
 お前も、本ばかり読んでると頭が腐るぞ」
「うるせー!」
激昂したヴィヴィオは手の中にある本を投げようと身構えたが、以前それを実行してキャロラインにしこたま叱られたのがふと頭をよぎる。
思い直して、椅子の背中に挟んでいたクッションを代わりに投げつけたが、シローはそれをろくに見もせずにかわしてしまった。
「はっはっは、そう怒るな少年」
高笑いとともに上機嫌で台所に向かうシローを見送り、大きく諦めの溜息をつくヴィヴィオ。
「はぁ、たくよ……本当に何なんだあいつは」
ぼやきながらも、こういったやりとりをどこか楽しんでいる自分に気付く。
――もしかすると、あれがシローなりの心遣いなのだろうか?
勿論、単に何も考えていないだけかもしれない。ただの買い被りということは充分あり得る。
でも、そんな彼の言動が周囲に安心感を与えているのは事実だ。
皆、仕方ないなと呆れつつも目は笑っている。そう思えてならない。

考えているうちに怒りもどこかへ吹き飛んでしまい、ヴィヴィオは椅子へと深く座り直す。
一息つき、彼は再び卓上の本を手に取った。表紙には、『錬金術入門』と記されている。
もう何度も読み返したそれを、ヴィヴィオは飽きもせずにまた開く。
単純にすら思えるごく基本的な理論の中にこそ、求めている真理が見つかる事もある――師の教えを、忠実に実行しているのだ。
錬金術を極めるという目標は変わらない。ただ、その目的が今は異なっている。
もう、ヴィヴィオは家族を甦らそうなどとは考えてはいない。彼が求めているのは、荒野に一面の花を咲かせる方法だった。
剣と炎に破壊尽くされた故郷を楽園に変え、家族が花に包まれて安らかに眠れるように。
――それこそが、ヴィヴィオに芽生えた新たな夢。
「さて、夕飯前にもう一頑張りといくか……」
一人呟き、ヴィヴィオは本のページをめくって勉強へと戻った。


キャロラインが扉を開けると、スラーヴァが窓辺に立って外を眺めていた。
「起き上がっていいの? また、変に我慢したりしてない?」
「ああ、大丈夫だよ。大分、痛みも引いてきたし」
驚いて声をかけるキャロラインに、振り向きながらスラーヴァが答える。
意識を取り戻して以来、彼は驚くべき早さで回復を続けている。蒼白だった顔も、今はすっかり元の色を取り戻していた。
しかし、まだ本調子とは到底呼べないはずだ。だからこそ、この時期に無理をさせることだけは避けたい。
キャロラインがなおも心配そうな表情を崩さないでいると、スラーヴァは自分の胸を軽く叩いた。
「この通り、何ともない。――何しろ、治してくれた人の腕が良かったからね」
「え? あ、いや、そんな、私の腕なんてまだ大した事ないよ……」
いきなり誉められて、嬉しさを通り越して何とも言えないくすぐったさを覚える。
照れを隠そうと、やや大袈裟に手をばたつかせるキャロラインを、スラーヴァの真摯な瞳が真っ直ぐに見つめていた。
「いや。君がいなかったら、危なかったかもしれない……本当にありがとう」
「ううん、私は当たり前のことをしただけだから。何といっても仲間なんだし。……ね?」
首を横に振りつつも、表情が自然ににやけてしまう。
しばし喜びに浸っていたキャロラインだったが、ふと、スラーヴァの手にあるペンダントに目を留めて顔を向けた。
行方知れずとなった彼の妹、スヴェトラーナが残した唯一のもの。
こうしている今も、スラーヴァは妹の身を案じているのだろう。すぐにでも探しに行きたい気持ちを、必死で抑えているに違いない。
その心中を思い、ちくりと胸が痛んだ。
「……スヴェトラーナさん、また会えるといいね」
「うん。旅に戻ったら、探してみようと思う。
 どこにいるかはわからないけれど……もう一度会って話したいんだ。
 例え、あいつが俺を憎んでいたとしても。それでも、たった一人の妹だから……」
ペンダントを見つめながら語るスラーヴァの口調は、愁いを帯びてはいても迷いはない。
そこに確かな強さを感じ、キャロラインは大きく頷いた。
「大丈夫、絶対にわかってもらえるよ。私が保証しちゃう」
「ありがとう。……君もね」
「え?」
「看護師の試験、もう少しなんだろ?
 こんな時に、大切な時間を使わせてしまって申し訳無いのだけれど……」
「ううん……本当に、それは気にしないで」
勉強なら、今までに実技も含めて山ほどしてきた。今更、慌てても仕方がない。
そう言って笑顔をスラーヴァに向けると、彼もまた穏やかに微笑っていた。
「キャロラインならきっと合格できるよ。
 治してもらった患者が言うんだから、間違いないさ」
「ありがとう。……私、頑張るから」
またしても何だか気恥ずかしくなり、キャロラインは慌てて愛用の医療鞄を持ち上げた。
中から新しい包帯を取り出し、スラーヴァに軽くそれを振ってみせる。
「――包帯、取り替えようか」
「ああ、頼むよ」
傾きかけた太陽が、答えるスラーヴァの横顔を夕焼けの色に染めていた。


ほぼ同時刻、夕暮れの街をせわしなく動き回るローラの姿があった。
「ええっとぉ、ここに噴水があってぇ、こっちには水路……
 ふえ、本当に多いですねぇ」
独り言を呟きつつ、素早くペンを紙に走らせる。
ここ最近色々とあって地図を描けないでいたのだが、その手の動きにはまったく淀みはなかった。
数日をかけて、段々と街の様子が紙に浮かんでくる様子は、時間を忘れさせるほどに楽しい。
今日も、気がついた時にはもう日が沈みかけていた。
先ほどメモしたばかりの街路を指で辿り、元来た教会への道のりを測る。
「随分遠くまで来ちゃいましたねぇ。
 いい加減にしておかないとぉ、もう夜になっちゃいますぅ」
早くしないと、夕飯の時間に間に合わない。
慌てて駆け出そうとした時、一軒の古びた店が目に飛びこんできた。
「……ふえ?」
看板を見ると、どうやら古物商であるらしい。
ローラは一瞬迷ったものの、好奇心を抑えきれず、そこに入ってみることにした。
「こんにちはぁ〜!」
元気の良い挨拶とともに扉を開けたローラに、店の主人とおぼしき初老の男が愛想良く声をかける。
「いらっしゃい。ある物は何でも見ていっておくれよ」
「はいですぅ。ふえ、珍しいものがいっぱいありますねぇ」
期待を裏切らず、店の中には不思議な品物が所狭しと陳列されていた。
いわくありげな壷や、古びてはいても見事な装飾の施された短剣など、見ていて飽きることがない。
商品を楽しげに眺めていたローラだったが、ふと、壁にかけられた額縁に目を留めた。
歩み寄ってみると、色褪せた羊皮紙にかすれた図形や文字が描かれている。
所々読みづらくはあるが、明らかにそれは地図に違いなかった。
俄然興味を覚え、店の主人に問いかけるローラ。
「……この地図って、どこかの島ですかぁ?
 何だか、変なところに印がついてますけどぉ」
「ああ、それかい? そいつは宝の地図ってやつさ」
男の口からさりげなく飛び出した単語の響きに、思わず目を見開く。
「宝の……地図? えぇ! 本当ですかぁ?」
「特別に安くしておくよ。……買うかい?」
頷くよりも先に、ローラは懐から財布を取り出していた。


ややあって、息を切らしながら全力で街を走るローラ。
手には、買ったばかりの“宝の地図”。その胸は、既に新しい冒険への期待で満ち溢れていた。
スラーヴァの傷が治ったら、みんなでまた旅をしよう。
どんな苦難でも、仲間たちがいればどこにだって行ける。ローラは、そう信じて疑わない。

まだまだ、道は前へと続いている――“手探りで進む者たち”の旅は、決して終わりはしないのだ。

「ただいまですぅ! 聞いてくださいよぉ、すごい物手に入れちゃいましたぁ!」
勢い良く扉を開け、ローラは満面の笑みとともに声を弾ませた。


〔執筆者あとがき〕

長編としては、この第10話をもって一旦の区切りとなります。
終わりではなく、むしろこれからが真の始まりとも言えるのですが……。

ファンブラーズの物語を通してのテーマとして、“自らとの戦い”があります。
それは背負った業であったり、理性で抑えきれない感情であったり。
ひとりひとり形は違えど、キャラクターたちは誰もが常に戦い、葛藤を続けてきました。

人とは、常に矛盾を孕んだ存在です。
美しくありたいと願いながら、汚れたものも少なからず抱えています。
――罪深く愚かで、哀しい。でも、だからこそ堪らなく愛おしい。

この物語では、そういった“人間らしさ”を、できる限り表現したいと思いました。
書き手の力不足ゆえ、それがどこまで成し遂げられたか不安は残りますが……ほんの少しでも、読者の皆様の心に届くものがあればと願ってやみません。

ファンブラーズの物語はこれからも続きますが、まずは、ここまで読んでいただいた全ての方々と、執筆にご協力いただいたプレイヤー諸氏に心からの感謝を申し上げたいと思います。
どうもありがとうございました。