“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第8話
鏡の向こう(前編)
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/06


1.過去より浮上する鏡像 5.焦がれ、仇なす半身
2.死神の忌み名 6.運命を分かつ腕
3.汚泥に咲く花の如く 7.その拳は血に濡れても
4.千切られた絆
〔執筆者あとがき〕


1.過去より浮上する鏡像

窓を開けると、潤った涼しい風が部屋の中へと優しく入ってきた。
同時に、視界に広がる瀟洒な町並み。
レンガをモザイクに敷き詰めた道路の脇には彫刻が惜しげもなく飾られており、市街を繊細に縁取る水路は、日の光を映し銀の糸の如く輝いている。
その美しさに、ローラは思わず溜息をついた。
「ふえ……すごいですぅ」
「本当だよね……話には聞いていたけど、ここまで綺麗だなんて」
隣のキャロラインも、ひたすらに目を奪われている。

バルバドス地方を南下した、水の地域アムドゥシアス地方。
その中心に位置する芸術の都セレナイトに、ローラたちはいた。
先日、吟遊詩人の少女から護衛の依頼を受けて、この街までやって来たのである。

「どうだい? 気に入った?」
背後から、スラーヴァが笑いながら声をかけてくる。
「気に入ったというか……感動してる」
「スラーヴァってぇ、こういうところで暮らしてたんですねぇ。
 わたしぃ、教会に泊まるのって初めてですぅ」
「そうかい? とりあえず、あるものは何でも好きに使ってもらって構わないから」

仕事を無事に終えた後、“手探りで進む者たち”は少しこの街で羽を休めることとなった。
最近色々なことが起こりすぎたため、知らず知らずのうちに疲労も溜まってきている。無理に冒険に出て、思わぬ怪我をしないとも限らない。
そこで、スラーヴァが自分の育った教会へ来ないかと申し出たのだ。
司祭であった養父母がすでに他界しているため大人数でも気兼ねは要らないし、たまに知人が様子を見に来てくれているので、少し掃除さえすれば快適に過ごせる。
何よりも、宿代がまったくかからない。
そんな魅力的な提案に、意を唱えるような者はいなかった。

「ありがとですぅ。それにしてもぉ、いいお家ですよねぇ」
「そう言ってもらえると俺も嬉しいよ」

ローラの言葉に、スラーヴァが満足げに微笑む。
この教会を管理している知人というのは随分几帳面な人物らしく、予想以上に手入れが行き届いており、床には埃一つ落ちていなかった。
小さいながらも小奇麗な建物で、古さのなかに素朴さと温かみを兼ね備えている。

「そういえばぁ、ヴィヴィオくんとシローさんはぁ?」
ふと気付くと、いつも何かと騒がしい二人の気配がまったく感じられない。
首を傾げるローラに、スラーヴァが答えた。
「シローはちょっと出てる。ヴィヴィオは……下にいるんじゃないかな」
「そう……ですかぁ」
最近、何かと沈みがちだったヴィヴィオのことを思い、ローラの胸がちくりと痛む。
過酷な運命がもたらした心の傷が癒えるまでには、まだ時間を必要とするだろう。
その影響がしこりとして残っているのか、今回の旅の道中も、どこかパーティ全体の歯車が狂ってしまっているように感じられた。
一人の変調は、即ち“手探りで進む者たち”全員の変調でもあるのだ。少なくとも、ローラはそう思っている。
彼女が考えを巡らせた時、階下の玄関から小さくノックの音が聞こえてきた。

「ん? 誰かな」
長らく無人だった教会を訪ねてくる者とは、どんな人なのだろうか。
好奇心をおぼえたローラは、部屋を出るスラーヴァの後をキャロラインと追うことにした。
二人で、階段の上からこっそりと玄関の様子を窺う。

やがて扉が開き、訪問者の姿が現れた瞬間、ローラは思わず自分の目を疑った。
銀に輝く短めの髪、透けるような白い肌、愁いを帯びた紫紺の瞳――互いの姿を認めて向かい合う、同じ顔。
目の下の泣き黒子までが、鏡に映したように左右逆に位置している。
細身の身体に、しかしはっきりと現れている柔らかな胸の膨らみだけが、スラーヴァと違っていた。

「――スヴェータ」
しばらく立ち尽した後、自らと同じ顔をした女性へ向けて呟くスラーヴァ。
「……お前……なのかい?」
微かに震える声で問いかける彼に、彼女は小さく笑みを浮かべて頷いた。
「生きて……くれていたのか……」

以前、スラーヴァは「自分には妹がいた」と語った事がある。
身寄りがないとも聞いていたので、もうこの世にいないものと思っていたのだが……その妹が生きていたということだろうか?
そうでもなければ、ここまで瓜二つである説明がつかない。
呆然と見守るローラとキャロラインを、ふと女性が見上げる。
彼女の視線を追い、スラーヴァもまた二人がいることに気付いたらしい。
恥ずかしそうに一瞬顔を伏せ、それでも嬉しそうに微笑してみせる。

「――ああ、紹介するよ。俺の双子の妹、スヴェトラーナ」
落ちつかない様子で慌てて会釈をする少女たちに、彼女――スヴェトラーナがくすりと笑いかける。
スラーヴァとは異なる、女性らしい艶然たる美しさ。
顔は同じ双子でも、やはり違うものだなと思う。
「立ち話も何だから、とにかく入って。ローラたちもおいでよ」
スラーヴァに促され、ローラたちは慌てて階下へと降りていった。

2.死神の忌み名

「……それにしても、よくここがわかったね」
こじんまりとした応接間にスヴェトラーナを案内し、茶の用意をしながらスラーヴァが言った。久々に会ったためか、どこかその表情にぎこちなさが垣間見える。
そんな様子を、ローラはキャロラインと二人ソファーに座りながら窺っていた。
奥に続く食堂には、少し離れてヴィヴィオの姿。一言も発する事なく、ただスラーヴァとスヴェトラーナを見つめている。
彼もまた、弟を含めた家族を全員亡くしている。同じ立場にいたはずのスラーヴァの妹が生きていたということで、複雑な心境なのかもしれない。
スラーヴァは一瞬ヴィヴィオを見たが、彼は視線を伏せただけだった。
申し訳なさそうに俯いた後、妹の方へと向き直るスラーヴァ。
「――でも、こうやって会えて良かった」
「そうね……幸せそうで、何よりだわ」
兄の姿を眺めながら、スヴェトラーナが初めて口を開いた。
涼やかながらも温かみのあるスラーヴァの声と違い、底冷えするほどの寒さを感じさせる。
口の端を吊り上げて笑みを浮かべ、言葉を続けるスヴェトラーナ。
「八年間幸福に暮らしてきたというのなら、
 私は遠慮無くあなたを憎めるものね――ねえ、スタニスラーヴァ?」

瞬間、スラーヴァの手からティーセットがこぼれ落ちた。
床に叩きつけられたそれが砕け、湯気の立つ茶が絨毯を濡らしていく。
しかし、彼はそれにすら気付かない様子で立ち尽すばかりだった。
「……どうして」
呟きとともに、スラーヴァの秀麗な眉が険しく歪む。
「どうして――その名で俺を呼ぶ!?
 俺が……その、女の名前をどんなに呪っていたか……
 わからない、お前じゃないだろう!?」
怒気も露に、スヴェトラーナに詰め寄っていくスラーヴァ。
彼が、ここまで激しい感情を表に出す事は非常に珍しい。
激情の篭った視線を平然と受け止めつつ、スヴェトラーナが答えた。
「ええ、わかってるわ――“兄さん”」
彼女の瞳に、兄に対する蔑みと哀れみの色が浮かぶ。
困惑の表情で、スラーヴァは妹を凝視していた。
「なら……どうして、今更……」
「今更、ね……。確かに、あなたには過去のことかもしれない。
 でも――私にとっては紛れも無い現実なのよ」
「……まさか」
驚愕に見開かれる、紫紺の双眸。
同じ色をしたもう一対のそれが、無表情にその姿を映し出す。
「ええ、八年前のあの日……燃えさかる館から私を連れ出したのは、あの男。
 それから私はずっと、地獄の中に取り残されていた」
「そん……な」
「苦しかったわ。たった一人で、あの男の仕打ちに耐え続けるのは。
 それでも、火事で死んでしまったあなたよりは幸運だったと……
 あなたの分まで生き抜こうと、それだけが心の支えだった」
怒りも忘れ、二の句が継げないでいるスラーヴァに、スヴェトラーナは氷の矢と化した言葉を次々と浴びせていく。
「でも、あなたは生きていた。
 旅の冒険者に救い出され、セレナイトの司祭夫婦の養子になって。
 八年間、幸福に暮らし続けていた!」
「……」
冷然と微笑を崩さなかった彼女の表情は、いつしか底無しの恩讐に塗りつぶされていた。
「それを知った時、裏切られた気分だった……
 その時から、私の生きる糧は憎しみに変わったの。
 スタニスラーヴァの名を捨てて、スタニスラーフに戻ったあなたに対するね」

事態を見守るしかできないローラの脳裏に、とある疑問が浮かんだ。
“スタニスラーヴァ”という名がスラーヴァの本名である“スタニスラーフ”の女性形であることはわかる。
しかし、それを捨てたとはどういうことなのだろうか。
考えを巡らせているところに、さらにスヴェトラーナの声が畳みかける。

「スタニスラーフ、あなたの正体は穢れきった死神よ。
 あなたを育てた両親、あなたと一緒に屋敷に囚われていた子供達、
 あなたを救った冒険者、あなたを養子に迎えたクナーゼ夫妻――
 今まで何人の人間が、周りで死んでいったと思う?」
「……それは」
「――グレン・ピッツバーグ」
スラーヴァが口を開きかけた時、遮るように一つの名前が彼へと叩きつけられた。
何故、スヴェトラーナがグレンを知っているのか?
その不自然さを感じ取る余裕は、今のスラーヴァにはなさそうだった。表情を失くして、ただその場に凍りついている。
「彼、まだ二十歳だったんですって?
 可哀想に、あなたとさえ出会わなければ死なずに済んだかもしれないのに」
「どういう……ことだ?」
「彼が死んだのは、精霊力のバランスを崩されたからなんでしょう?
 あなたがその原因でないと、どうして言えるの?」
「……何……だって」
衝撃に打ちのめされ、スラーヴァの顔色はすでに蒼白となっていた。
さらに追い詰めるように、スヴェトラーナは氷の視線で彼を責め続ける。
「クナーゼ夫妻にしても、私たちの両親にしても……
 病で死ぬにはまだ早い年齢だと思わない?
 立て続けにだなんて、偶然にしてはおかしな話だわ」
現在、この大陸を襲い続けている精霊力の異常。その法則は、世界の最先端をいく学院の研究をもってしてもまだ掴めてはいない。
誰がいつ、異変に見舞われないとも限らないし、同時にその原因とならないとも言い切れないのだ。
知らず知らずのうちに、狂いの源と化しているという可能性は充分あり得る。
震える拳を握り締めながら、スラーヴァはそれでも声を必死に絞り出していた。
「馬鹿な……俺が、殺したって……言うのか?」
「さあね。でも、用心した方がいいわよ? 大切な仲間を失いたくはないでしょう?
 あなたに近い者から死んでいった事実は、変わらないのだから」
どこまでも冷酷に、スヴェトラーナの声が告げる。
「この私だって……もう死んだようなものだわ」

その時、奥の食堂からヴィヴィオの声が響いた。
「……ちっ、人が黙ってりゃ好き放題言いやがって」
不愉快さを隠そうともせずに椅子から立ち上がると、前に進み出ながら自分を指で示す。
「もし、お前が言っていることが本当なら、次に死ぬのは俺ってことだろ。
 こん中で、一番スラーヴァと付き合いが長いのは俺だからな。
 だから、俺が生きている限り、他の奴らは死なねぇってこった。
 生憎だがな、結構しぶといぜ? 俺様はよ」
言いながら、ヴィヴィオはスヴェトラーナを真っ直ぐ睨みつけていた。
「ヴィヴィオ……」
視線を向けてくるスラーヴァにも構わず、ただ一点を見つめるヴィヴィオ。
そんな彼に、スヴェトラーナは揶揄するような笑みを向けた。
「優しいのね。――彼の過去を知りながら、
 あなたはスラーヴァを仲間と呼んでくれるの?」
そう言いながら、ヴィヴィオ、そしてローラとキャロラインの顔を順番に眺める。
「……やめろ、スヴェータ」
狼狽を隠しきれないスラーヴァの声に振り向き、嘲弄の形に口の端を吊り上げるスヴェトラーナ。
その表情は、スラーヴァと同じ顔には随分と不似合いに思える。
「やっぱり、話していなかったのね。そんな事だろうと思った。
 仲間を騙し続けて平気なの?」
「……」
黙りこんだまま下を向く彼を、どこか加虐的なスヴェトラーナの瞳が見つめていた。
「自分で話す勇気もないだろうから、私から教えてあげる。
 いいでしょう? スタニスラーヴァ。
 ――あなたには、ドレスが良く似合っていたわね」
彼女の言葉に、スラーヴァの顔が憤懣と屈辱に大きく歪んだ。

3.汚泥に咲く花の如く

「――私たちはね、生きている人形だったのよ」
「お人形さん……ですかぁ?」
恐る恐る、言葉を反芻するローラに、スヴェトラーナが頷く。
その紫紺の瞳は、どこまでも深く陰惨な光を放っていた。
「そう。とある男のコレクションとして、私たちは集められた」
まだ、よく意味がわからない。
怪訝な表情を浮かべていると、スヴェトラーナがそれに答えるように語り始めた。
「四歳の時に両親が死んで、スラーヴァと私は、とある地方貴族のもとに引き取られたの。
 表向きは、身寄りのない子供を庇護するという目的のもとにね。
 でも――現実は、そう甘いものじゃなかった」
物語を話して聞かせるが如く淡々とした口調。
同時に、口の端に自嘲とも、揶揄とも受け取れる笑みが浮かぶ。
「本当のことに気付いた時には、もう逃げ道は全て奪われていた。
 当然よね。名も無い孤児たちの行く末など気にする者なんて、誰もいないんですもの。
 そうして、あの男の欲望のままに弄られた結果が――これよ」
スヴェトラーナはそう言うと、スラーヴァの腕を掴んだ。
不意をつかれた彼が反応できないでいるうちに、いつも肘から手までを覆っている長い手袋を剥ぐ。

「……!」
露になった素肌。それを見て、ローラたちは息を呑んだ。
日に当たっていない白い肌に隙間なく、縦横に古傷が刻まれている。
ただの怪我の痕でないことは、医学に明るくないローラにもすぐわかった。
一つの傷が治りきらないうちに、さらに新しい傷を重ねられた――凄惨かつ執拗な虐待のしるし。
幼いスラーヴァに与えられた壮絶な苦痛を思い、思わず口唇を噛み締めるローラ。
「――っ」
腕を掴まれたまま、目を背けて苦渋の表情を浮かべるスラーヴァに、スヴェトラーナは満足げに微笑んでみせる。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。傷くらい、どうってことないでしょう。
 この仕打ちに耐えられずに、またはあの火事で死んでいった
 多くの子たちに比べれば……生き残った私たちはまだ、幸運だったのよ」
「……」
押し黙るスラーヴァの顔を覗きこみ、さらに残酷な笑みで彼を追い詰めていく。
「瓜二つの姿をした私たちは、特にあの男のお気に入りの玩具だったわね。
 お揃いのドレスを着て、髪を腰まで長く伸ばして――あの男に愛でられていた。
 スタニスラーヴァとスヴェトラーナ……双子の“姉妹”としてね」
「やめろ、スヴェータ。それ以上言うんじゃない」
懇願するような、スラーヴァの苦しげな呻き。
それを踏みにじる冷酷が眼差しが、彼を深々と射抜いた。
「いいえ、やめない。それであなたが苦しむのなら、私は喜んでそうしてあげる」
怨色もあらわに、自らと同じ美貌を与えられた兄を睨み据えるスヴェトラーナ。
半身とも言える双子の片割れ。それを、どうしてここまで憎む事ができるのだろう。
彼女は一旦言葉を区切ると、今度は驚くほど優しげな声音でスラーヴァへと語りかけた。

「ねえ、スラーヴァ。あなたは一体、どれだけの夜をあの男の……」
「……やめろと言ってるんだ!」

スヴェトラーナの言葉が、ローラの意識に意味をもって浸透した時、激昂したスラーヴァの叫びが強く耳を打った。
ようやく理解したその事実とともに、衝撃が心を大きく揺さぶる。
まさか。スラーヴァが。
一点の曇りもなく清純であると信じていた、彼が。そんな――
隣を見ると、キャロラインも顔色を失って微かに身体を震わせている。
困惑を隠しきれない少女たちをよそに、美しき双子のやりとりはまだ続けられていた。
「しばらく見ないうちに、随分と男らしくなったものね。
 そんなに、男でいたい? それとも、女として扱われていたことを忘れたいだけ?」
「俺は……男だよ。生まれた時からずっと、男だ……」
「だから、剣を手に取ったの? それで、誰かを守るために?」
全てを見透かしたような口調に、言葉を詰まらせるスラーヴァ。
その隙を逃さず、スヴェトラーナはさらに嘲罵を浴びせていく。
「笑わせないで。いつも、私と一緒に震えることしかできなかったあなたが、
 一体何を守れるというの?」
おそらく、それは彼の最も痛い所を突いたのであろう。
スヴェトラーナは哀れむかの如く、うなだれるスラーヴァを歪んだ笑みで見ていた。
「誰一人、守れやしないのよ……兄さん。
 あなたは、人に不幸しかもたらさないのだから」
彼が抵抗する力を失ったことを確かめて満足したのか、スヴェトラーナは次にローラとキャロラインに視線を向けてきた。
「これで、わかったでしょう? あなたたちが今まで仲間と思っていた男の正体が。
 優しい顔をして、自分の汚れた身体を隠して……騙し続けていただけ。
 それでも、まだ彼を仲間と呼ぶ?」
頭が、真っ白になっていた。
心の中に反論が浮かんでは、困惑のうねりの中に押し流されていく。まったく冷静になれない。
勝ち誇った表情のスヴェトラーナに、ローラはひたすら無力だった。

暗く淀んでいく感情を振り払うべく、声を張り上げようとしたその時。
背後から、もう一つの声が響いた。
「――ごちゃごちゃとうるさい女だな」
見ると、応接室の扉の前にシローが立っている。
「シローさん……いつからそこに」
「ちょっと前からだよ」
呆然と呟くキャロラインに軽く言葉を返すと、彼はスヴェトラーナの前に立ち、見下ろしながら凄んだ。
「兄貴の悪口を並べ立てて、何がやりたいかは知らないがな。
 お前が性格の悪い女だってことだけはよくわかった。
 本当なら殴ってやりたいところだが、俺は心が広いからな、
 スラーヴァに免じて勘弁しといてやる。とっとと帰れ」
一片の迷いもない明快なシローの言葉が、ローラの呪縛を打ち砕く。
しかし、スヴェトラーナはなおも余裕の表情を崩さなかった。
「……あなたはそうかもしれないわね。でも――彼女にとってはどうかしら」
スヴェトラーナが視線を動かした瞬間、弾かれたようにキャロラインが悲鳴を上げる。
「もうやめて!」
「キャロラインちゃん……」
両目を瞑り、手で自らの耳を塞いで。
身体を震わせながら、席を立って子供のように首を振り続けるキャロライン。
ローラが声をかけたが、それすらも聞こえていない様子だった。
「何なの……おかしいよ、こんなのって。
 この前から、ヴィヴィオくんも、シローさんも……。
 今度はスラーヴァまで! もう私、何を信じていいのかわからない!」
全てを拒絶する、ヒステリックな絶叫。
余韻が部屋の隅々まで響き渡り、やがて水を打ったような静寂が後を追う。
その中を、蒼白な顔のスラーヴァがキャロラインへ向けて歩み寄ろうとする。
「キャロライン……」
「いやっ!」
彼の声を聞き、キャロラインは大きく後ろに後退った。
「もう、私に構わないで!」
声を限りに叫ぶと、スラーヴァの顔を見ようともせずに、扉から勢い良く二階へと駆けていく。
「キャロラインちゃん!」
ローラが慌てて後を追おうとした時、傷ついた表情で立ち尽くすスラーヴァの姿が視界の隅に映った。

4.千切られた絆

少女たちが去った後、部屋は痛いほど静粛に保たれていた。
ふと顔を上げると、そこには勝ち誇ったスヴェトラーナの微笑。
羞恥心と罪悪感から、スラーヴァはシローとヴィヴィオの方を見ることができなかった。
「――もう気は済んだんだろ。なら帰れよ」
長い沈黙を破って、ヴィヴィオが押し殺した声で言う。
スヴェトラーナは彼へと視線を向けると、呆れたように鼻で軽く笑った。
「その正体を知ってもまだ、あなたは彼を信じるの? ……随分なお人好しもいたものね」
ヴィヴィオの眉が吊り上がり、眉間に深い皺を寄せる。
不快感と怒りを堪えきれない様子で、彼はスヴェトラーナを力の限り睨みつけていた。
「正体もくそもあるか。スラーヴァはスラーヴァだろ。
 お前が言ってることは、それとは何の関係もねぇよ。いい加減にしねぇと……」
言葉とともに一歩前に進もうとしたヴィヴィオを、シローが腕で制する。
「――そういうことだ。
 俺が優しくしてやっているうちに出ていった方が身のためだぞ。
 本人の前で、妹を殴るのは気がひけるからな」
シローの口調はいつも通りに軽いものだったが、眼光は炯炯と鋭くスヴェトラーナへと向けられている。彼もまた、怒っているのだ。
「それは怖いわね。いいわ、今日はこのぐらいで失礼させてもらうから」
スヴェトラーナは余裕の表情を崩さぬまま、自分を射ぬく視線を意に介した様子もなく、扉の方へと悠然と歩いていく。
去りぎわに、彼女はもう一度彼らの方を振り返って艶然と笑った。
「あなたたちももう少し考えた方がいいわよ? 死にたくなければね」
不吉な言葉とともに部屋の外へ消えていった後姿を見送り、ヴィヴィオが大きく舌打ちする。
「けっ、余計なお世話だってんだよ」

「……すまない」
俯き、二人へと詫びるスラーヴァ。
どこからまず謝罪すれば良いのかすら、見当がつかない。

彼の内では、キャロラインの叫びが未だに耳の奥で反響を続けていた。
今まで隠し通してきた自らの穢れを曝け出された痛苦が、心を強く締め上げる。
そして――もっとも恐れていた、仲間からの嫌悪の眼差し。
口唇を噛み締めるスラーヴァに、ヴィヴィオが事もなげに口を開いた。
「別に謝ることじゃねえだろ」
シローも、肩を軽くすくめて同意する。
「ああ。それに、お前が女に見えたことなんて一度もないぞ。
 そこまで、俺は物好きじゃないからな」
「……そういう問題なのか?」
「さあな。まあ、とりあえず気にするなってこった」
ことさらに気を遣わず、さりげない彼らのやりとりが、スラーヴァの心を少しだけ軽くする。
「ありがとう……」
二人に短く感謝の言葉を述べると、スラーヴァはそのまま部屋を出た。


厳粛で、静謐な聖堂の空気。ステンドグラス越しに差し込む日の光が、柔らかく神の住処を照らす。
長椅子に腰掛けながら、スラーヴァは愛用の剣を両手に抱えていた。
本来武器を持ちこむべき場所でないことは充分承知していたが、それでも今はそうせずにいられなかった。
“ヴィエーチル・グレン”と銘打たれたシャムシール――若くしてこの世を去った親友が遺した唯一のもの。
その剣を手に、スラーヴァは静かに、自らの境遇を思い返す。
もう元には戻れない。失ったという、強い思いが彼の意識を支配していた。
「今まで謀り続けていたツケが来た――ただそれだけのことなのかも知れないな」
自嘲とともにそう呟き、剣を十字架のごとく掲げる。
「グレン」
友の名前を冠した剣を通して、その魂へと語りかけるスラーヴァ。
「教えてくれ。君を殺したのは、俺か……?」
思い出すのは、死に瀕したグレンの顔。
衰弱し力の全てを失いつつも、彼は剣を手放そうとはしなかった。
命の最後の一滴が燃やし尽くされるまで、ひたすらに生き続けることを願っていたのだ。
――それを奪ったのが俺だとするなら、あいつは俺を恨んでいるだろうか。
無論、その答えが返ってくるはずもない。
縋るように、剣を強く握り締めるスラーヴァ。
悲嘆に沈みかけた時、その脳裏に一つの誓いが蘇った。

――俺は、盾になるんじゃなかったのか。

かつて何も守れなかったことへの償いとして、ただ一つ自分へ赦したのがそれではなかったか。
そのために、剣を手に戦士となることを選んだのだ。
戻らないものを嘆くより、今はやらなければならないことがある。
「グレン……俺を恨むなら、それでもいい。
 でも、あと少しだけ……力を貸してくれないか」
言葉とともに、剣を自らの腰へと帯びるスラーヴァ。
迷いのない静かな決意が、彼の胸中を強く満たしていた。


一方その頃。二階には、固く閉ざされた扉へと呼びかけるローラの姿があった。
「キャロラインちゃん……」
取っ手に手をかけつつ、軽く扉を叩く。内側から鍵がかけられており、中に入ることはできない。
なおも呼び続けるローラに、消え入りそうなキャロラインの声が答える。
「ごめん、ローラ。今は……一人にしておいて……」
その言葉を聞き、小さく溜息をつくローラ。足取りも重く、彼女は階下へと下りていった。
「キャロラインはどうしてる?」
応接間に戻るなり、シローがローラの顔を窺う。
黙って首を横に振ると、そうか、という短い答えが彼の口をついて出た。
「――ちょっとぉ……わたしも出かけてきますねぇ……」
力なく歩き出す彼女を、シローとヴィヴィオが無言で見送る。
どうして良いかわからないまま、ローラは教会を後にした。
仲間たちが抱えている数々の問題を思い返しながら、のろのろと歩を進める。
先日のヴィヴィオのこと、シローの罪の告白、そして――スラーヴァの過去。
キャロラインほどではないにしても、これらはローラにも少なからず衝撃を与えていた。
こないだ十六歳を迎えたばかりの少女にとって、簡単に受け入れてしまえる問題では到底ありえない。
――これから、“手探りで進む者たち”は一体どうなってしまうのだろう。
地図を描く気すらおこらず、あてもなく街を彷徨うローラの前に、突如三つの影が立ち塞がった。
顔を上げると、そこにはスヴェトラーナと、彼女につき従う二人の男の姿。
「こんにちは。また会ったわね」
不吉な予感に立ちすくむローラを前に、スヴェトラーナは口の端を吊り上げて笑った。

5.焦がれ、仇なす半身

身の危険を感じたローラがじりじりと後退しかけた時、背後から緊張したスラーヴァの声が響いた。
「下がるんだ、ローラ」
「スラーヴァ……」
抜き身の剣を携え、厳しい表情でスヴェトラーナたち三人の前に立つスラーヴァ。
普段、ろくに武器も持ち歩きもしない彼からは考えられない行動だ。
目を丸くするローラをよそに、スヴェトラーナがまず口を開く。
「どういうつもり? 兄さん」
眉を微かに動かす彼女に対し、スラーヴァは一片の迷いもなく言い放った。
「何と罵られたっていい。でも――お前だけは助けようと決めたんだ」
その言葉に、スヴェトラーナの背後にいた男たちが武器を手に前へと進み出る。
スラーヴァは男たちへ鋭い視線を向けると、剣を構えた。
「お前を縛るもの全てを打ち砕く。そのためには、俺は戦いだって辞さない……!」

言葉が終わりきらないうちに、男たちへ向けて斬りかかるスラーヴァ。
気迫とともに繰り出された横薙ぎの一撃が一人の片腕を傷付け、もう一人の剣と甲高い音を打ち鳴らす。
今や彼も立派な剣士だ。相手が二人とはいえ、やすやすと負けるはずはない。
スラーヴァが手傷を負った男をさらに追い詰めようと動いた時、予期せぬ妨害が衝撃となって彼を襲った。
「うあ……!?」
スヴェトラーナが、隠し持っていた鞭で彼をしたたかに打ち据えたのだ。
身体を仰け反らせ、軽い痙攣とともに地に伏すスラーヴァを、すかさず男たちが取り押さえる。
「スラーヴァ!」
駆け寄ろうとするローラの前に、いつの間にか鞭を手にしたスヴェトラーナが立っていた。
もう片方の腕に短剣を構え、ローラの喉元へと押し当ててくる。
「動かないで。死にたくはないでしょう」
「ス……ヴェータ……? や、めろ……」
「安心して。余計な抵抗さえしなければ、危害は加えないから」
苦しげに呻くスラーヴァを眺め、右手の鞭を誇示するように掲げてみせるスヴェトラーナ。
「南海に棲む海竜から作られた鞭よ……なかなかに痺れるでしょう?」
おそらくは、運動神経をごく一時的に鈍らせる能力を備えているのだろう。
希少な素材から作られた武器には、こういった特殊な機能を備えているものが少なくない。
ローラに短剣を油断なく突きつけたまま、スヴェトラーナはスラーヴァを見下ろしていた。
「この娘を人質にあなたを捕らえるつもりだったけど……手間が省けたわね」
「どうして……お前が、そんなことを」
まだ信じられない様子の彼に、可笑しそうに憫笑するスヴェトラーナ。
「もう、八年が過ぎているのよ。私たち双子の運命が分かたれてから」
子供に教え諭すように、穏やかな口調で彼女は続けた。
「あの火事の中でヴィクトール・ハインガットに救われたあなたが、
 その後引き取られたクナーゼ夫妻のもとで神官となったように。
 ヨハネスに救われた私も、もう一つの顔を持つようになった。
 そう、暗殺者としてのね」
スラーヴァの双眸が驚愕に見開かれ、すぐに憤怒へと染まる。
「何て……ことを……くそっ!」
激情に駆られる彼とは対照的に、スヴェトラーナの瞳はどこまでも冷え切っていた。
「あの人はね、ただ遊ぶだけの人形ではもう満足できないのよ。
 だから実用性を私に求めた……それだけのことだわ。
 これでも、結構役に立っているのよ?
 おかげで、私はあなたを見つけることができたのだもの」
「……っ」

司祭夫婦に引き取られたことや、グレンの存在を知っていたのも、彼女自身が行った諜報活動の結果だろう。
言葉を失ったスラーヴァが下を向くと、彼を取り押さえている男の一人がスヴェトラーナへと声をかけた。
「スヴェトラーナ様、この二人はどうなさいますか」
「連れて行って。ヨハネスの目的はスタニスラーフの身柄だけど、
 彼一人ではどういう抵抗に出るかわからないもの」
その言葉に、スラーヴァの表情が悔しげに歪んだ。
「ごめん……ローラ。俺の……せいで……」
押し殺した口調で申し訳なさそうに詫びる彼の姿が、痛ましく映る。
ローラが思わず声をかけようとした時、スヴェトラーナが遮るように口を開いた。
「いいザマね、兄さん」
抵抗の手段を奪われた兄に対し、スヴェトラーナは慈悲のかけらもない嘲笑を浴びせる。
「だから言ったでしょう。あなたには、何も守れやしないのよ」

まったく同じ顔を持った、美貌の双子。その妹が片割れたる兄を憎み、罵り続ける。
兄妹とは、互いに慈しむものではないのか? たとえ、たまに喧嘩をしたとはしても。
自らも兄と姉を持つローラには、眼前に広がる光景はあまりに悲しすぎた。
溢れ出す憂愁が、呟きとなって口から漏れる。
「どうしてぇ……」
気付いた時には、喉元のナイフも忘れて声を搾り出していた。
「どうして、スラーヴァをそんなに憎むんですかぁ!?
 あなたのお兄さんじゃないですかぁ! たった一人の、家族じゃないですかぁ!?
 こんなのってぇ……ひどすぎますよぅ……」
涙とともに訴えるローラの頬を、スヴェトラーナが鞭の柄で打つ。
「黙りなさい」
「やめろ! ……うっ」
気色ばんだスラーヴァが、男たちに再び組み伏されるのが視界の隅に見えた。
美しい紫紺の瞳を怒りにゆらめかせて、ローラを睨むスヴェトラーナ。
「あなたにはわからない。安穏と幸せな日常を家族と生きてきたあなたには。
 私の味わった孤独と絶望なんて……わかるはずがないのよ……
 実の兄妹だからこそ……私はスラーヴァを憎むのだから」
言葉に込められた限りない憎悪と妄執が、奮い立たせたロ―ラの意志を挫く。
「余計なお喋りの罰よ。少し眠りなさい」
「ローラ……!」
首筋に走る衝撃。暗くなる意識の中、スラーヴァの叫びが徐々に遠ざかっていった。

6.運命を分かつ腕

ローラが教会を出て、既に数刻が過ぎようとしている。
もう外は暗くなりかけており、不気味ともいえる静寂が室内を包んでいた。
「遅ぇなあ……」
ヴィヴィオが、苛立った様子で何度目かもわからない溜息を漏らす。
今、この応接間にいるのは彼とシローの二人だけだ。
キャロラインは相変わらずあてがわれた自室に閉篭ったままであったし、スラーヴァもまた、いつの間にか教会を留守にしていた。
居心地の悪い沈黙が場を支配する中、玄関をノックする音が耳に届く。
シローは黙って席を立つと、多少の警戒を交えつつ扉を開けた。

隙間から現れたのは、見慣れた顔にそぐわぬ表情を浮かべた銀髪の美女。
不快感を隠そうともせず、眉を大きく顰めてみせる。
「またお前か」
「そう嫌な顔をしなくても、すぐ帰るわよ。届け物に来ただけだから」
いかにも余裕綽々といった、人を小馬鹿にしたその様子がまた気に食わない。
相手をするのも面倒になり、ぞんざいに言葉を返す。
「生憎だが、スラーヴァはいないぞ」
「ええ、そうでしょうね」
スヴェトラーナの双眸が、シローの姿を映して妖しくも不敵に輝いた。
瞬間、不吉な直感が脳裏をよぎる。
「何?」
色めき立つシローの前に、スヴェトラーナは微笑とともにいくつかの物を投げた。
「――!」
地面に音を立てて放り出される、一振りのシャムシールと数本のダーツ。
いずれも、スラーヴァとローラが愛用している武器に間違いは無い。
これらが意味するところを悟り、シローは眼光鋭くスヴェトラーナを睨めつけた。
湧きあがる怒りが、自らの肉体を戦闘体勢へと導いていくのがわかる。
「二人はどこだ」
「さあ?」
「俺はまどろっこしいのは嫌いでな。相手が女でも容赦しないぜ」
白を切るスヴェトラーナへと詰め寄り、凄みを利かせるシロー。
しかし、彼女はその恫喝をも軽く受け流すと、逆に挑戦的な視線を彼へと向けてきた。

「ねえ、あなた……私の顔に見覚えはない?」
「お前みたいな性格の悪い女なんざ記憶にねえよ」
「ええ、そうね。私はあなたに会ったことはないわ」
「わけのわからんことを……しまいには怒るぞ」
もう充分過ぎるほどの怒気を発散しつつ、スヴェトラーナをさらに睨む。
そのシローの左腕を、不意に彼女が掴んだ。
「この腕で、一体あなたは誰を守ったの? シロー・オサフネ」
唐突で不可解な発言に、一瞬怒りも忘れて訝るシロー。
「……?」
「忘れているなら、それでもいいわ。
 どちらにしても……あなたのしたことは全て水の泡になるのだもの」
「……手を離しやがれ」
まだ彼女の意図は把握できなかったが、全てを理解しているといったような物言いが無性に腹立たしくなり、シローはその手を振り払った。
スヴェトラーナの口元に微かな嘲笑が浮かび――直後、表情が一転して険しく歪む。
水底から浮かび上がるかのように、瞳には暗い怒りと憎しみが渦巻いていた。
「中途半端な救いの手など、それが届かなかった者にとっては苦痛にしかならない。
 あなたたちは、その傲慢を知るべきなのよ」
そう言い捨てると、手にした小さな球体をシローへと投げつけるスヴェトラーナ。
閃光が彼の眼前を真っ白に覆い尽くし、視力を瞬間的に奪う。
「待ちやがれ、この……!」
スヴェトラーナの気配が遠ざかっていくのを感じてシローは怒鳴ったが、視界を失った状態では追うこともままならない。
ようやくそれを取り戻した時には、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「……ちっ」
自らの失態に、自嘲をこめて舌打ちするシロー。

「おい! どうした!?」
騒ぎを聞きつけて、ヴィヴィオが応接間から飛び出してきた。
「ご丁寧に、届け物だとよ」
シローが地面へと落ちた剣とダーツを拾い上げて示すと、ヴィヴィオの表情がさっと変わった。
怒りから拳を固く握り締め、小柄な身体を震わせる。
「まさか……あいつ! ――っくそ!」
「捕まえて居場所を吐かせようかと思ったが、逃げられた。
 どうやら、ただの女じゃなさそうだ」
先ほどスヴェトラーナが使ったのは、精霊の力を込めて錬成した魔石だった。殺傷能力はゼロに近いが、閃光で敵の視界を奪うことができる。
そう高価ではないので冒険者の間では広く普及しており、ローラもかつて使用していたことがあるが、一般市民が護身用に持つ類のものではない。
隙のない身ごなしといい、彼女に戦闘の心得があることは疑いようがないだろう。
スラーヴァとローラがあっさり捕まったことからも、敵の戦力をある程度窺い知ることができた。
これからの方針に考えを巡らせるシローに、ヴィヴィオが声をかける。
「……裏の世界での情報なら、俺に一つ心当たりがあるぜ。
 昔の地方領主がどうのとか言ってたからな、
 後ろ暗いことやってる奴が動いているなら、噂でも転がってるかもしれねぇ。
 八年も前となると、ちと厳しいかもだが……それ以外方法がねえからな」
「昔の地方領主……八年前、か……」
脳裏に、先刻のスヴェトラーナの言葉が蘇った。
――この腕で、一体あなたは誰を守ったの?
思い出すのは、八年前、まだ少年だったシローを戦士へと変えていった出来事。その時に負った左腕の古傷が、微かに痛んだ。
忘却の彼方へと追いやられていた記憶の断片が、徐々に一つの事実を形作ろうとしている。
――中途半端な救いの手など、それが届かなかった者にとっては苦痛にしかならない。
   あなたたちは、その傲慢を知るべきなのよ。
救われなかった者がスヴェトラーナだとするならば。救われた者とはすなわち……
「どうした?」
「いや」
思考に沈んでいたシローを、ヴィヴィオの声が現実へと引き戻す。
ヴィヴィオは少しの間怪訝そうに首を傾げていたが、すぐに表情を引き締めるとシローに声をかけた。
「ぐずぐずしてねぇで、早く行こうぜ。もう夜だが、この際構ってられねえ」
「まあ待て。その前に、やることがあるだろ」
「?」
苛立ち気味に眉を動かし、じっとしていられない様子のヴィヴィオ。そんな彼を諭すかの如く、シローは落ちついた口調で言った。

「俺たちだけで行くわけには、いかねえからな」

7.その拳は血に濡れても

「キャロライン、いるか?」
ノックの音とともに、扉の向こうからシローの声が聞こえてくる。
キャロラインは布団を頭から被り、ベッドの奥へと身を沈めた。
今は、そっとしておいて欲しい。男の人たちとは話したくもなかった。
「少し面倒なことになってな。ここを開けてくれ」
「キャロライン、開けろ! 閉篭ってる場合じゃねえんだ!」
反応がないことに苛立っているのか、切羽詰ったヴィヴィオの声が響く。
激しく扉を打ち鳴らす音が、キャロラインをますます頑なにさせた。
――もう、何があろうと私には関係がない。
耳を塞ぎ、両目を瞑って亀のように丸くなる。

「ラチがあかねえな。……ヴィヴィオ、そこをどけ」
直後、部屋の扉が勢い良く蹴破られた。
蝶番の片方が根元から破壊され、打撃によって砕かれた木片が細かく宙を舞う。
あまりの蛮行を前に、キャロラインはベッドから飛び起きて身を震わせた。
力なくぶら下がった扉をくぐり、シローとヴィヴィオが部屋へと踏みこんでくる。
「うわ……知らねえぞ俺は」
「非常事態だ、大目に見てもらうさ」
呆れたようなヴィヴィオの物言いに、悪びれることなく返すシロー。
彼らが自分の方へと歩み寄るのを見て、キャロラインは身体を強張らせて壁の方へと身を寄せた。
「来ないで!」
手元にあった枕を投げつけ、身を守るように布団にくるまる。
自分を真っ直ぐ見つめてくる彼らの視線が、今は何よりも恐ろしかった。
「もう私のことは放っておいてください!」
キャロラインの叫びにも、シローは全く動じない。構わず、さらに彼女の方へと歩を進める。
「悪いが、そういうわけもいかねえんだよ。
 スラーヴァの性悪な妹が、ローラとスラーヴァを拉致しやがったんでな」
「え……」
その言葉に、思わず顔を上げるキャロライン。
シローは軽く頷くと、さらに言葉を続けた。
「――だから、これから行くぞ」
キャロラインの脳裏に、囚われた二人の姿が浮かぶ。
その身を案じる心とともに溢れる、やり場のない強い怒り。それが、彼女の意識を瞬く間に埋め尽くした。
「嫌、です……」
喉の奥から漏れる、拒絶の声。
激情に任せて、キャロラインは自らの嫌悪と憤懣を二人へと叩きつける。
「……罪の無い人を殺めた……あなたたちと一緒には、行けません。
 それに……スラーヴァがいなければ、ローラだって捕まらなかったんでしょう!?
 私たちを、これ以上巻き込まないで!!」
声を限りに叫んだ瞬間、シローの手がキャロラインの頬を打った。
手を上げられた衝撃のあまり混乱し、頭の中が真っ白になる。
鈍い痛みが、少し遅れて彼女の意識へと届いた。
「あ……」
「おい……シロー!」
狼狽し、咎めるヴィヴィオの声も意に介することなく、シローはキャロラインを真っ直ぐに見据える。静けさの中にも深い怒りを湛え、漆黒の瞳が頬を押さえたままの彼女を映し出していた。
「――こいつの前で、もう一度言えるか?」
怒気を押し殺した声とともに、一振りの剣を差し出すシロー。
スラーヴァが大切にしてやまない、彼の亡き親友の形見だった。
「お前の言う通り、俺は人殺しだ。何と呼ばれようが構わねえ」
一片の迷いも自嘲の色もなく、淡々と言う。
「――でも、スラーヴァは違うだろうが。
 あいつが誰の前で、何のために戦ってきたのか――知らないとは言わせねえ」
拳に握り締めた剣を微かに震わせ、口調に力を込めるシロー。
彼の背後から、今度はヴィヴィオが前へと進み出てきた。
「キャロライン」
短く呼びかけた後、そのまま跪き、床に手を付いて深く頭を下げる。
「頼む、俺たちと一緒に来てくれ」
「ヴィヴィオ……くん……」
頬の痛みも忘れて驚くキャロラインを、ヴィヴィオの真摯な眼差しが見上げた。
「俺を仲間と思えないなら、それでもいい。
 でも、俺はどうしてもあいつらを助けなきゃならねえんだ。
 それには、お前の力がどうしても必要なんだよ……」
懇願とともに、さらに深く頭を下げるヴィヴィオ。
自分の弱みを見せるのをあれほど嫌う彼が、今はなりふり構わず床に頭を擦りつけている。
「この通りだ……頼む……」
それを目の当たりにした時、キャロラインの心に小さな迷いが生まれた。
針を刺すような痛みが、未だ燻り続ける蟠りと交互に彼女の内で複雑にうねる。
――もう、どうしていいかわからない。
混乱と葛藤が頂点へ達した時、彼女は無意識に声を張り上げていた。
「何も聞きたくない! もう出てって! 出てってください!」

水を打ったように、室内が一瞬にして静まり返る。
我に返ると、シローの無感情な瞳が自分を睨みつけていた。
もはや、怒りすらとうに通り越してしまったのだろう。
「……もういい。行くぞ」
短く吐き捨て、入口へと踵を返すシロー。もう、キャロラインの方を見ようともしない。
まだ何か言いたげなヴィヴィオを強引に引っ張り、そのまま壊れた扉を蹴り上げて外に出ていく。
階段を荒々しく降りていく足音が遠ざかり、キャロライン一人が部屋に取り残された。
考えてみると、本当に独りになったのは随分と久方ぶりな気がする。

まだ痛む頬をさすりながら、枕のないベッドに顔を埋めるキャロライン。
もう考えたくもないはずなのに、頭に浮かぶのは何故か仲間のことばかりだった。

一番の親友、ローラ。
パーティ結成からずっと自分を見守り、迷いそうな時には手を引いてくれている。
シローとヴィヴィオ。
最初は苦手だった彼らと打ち解けることができたのは、一緒に洞窟を彷徨ったのがきっかけだった。
そして、スラーヴァ。
彼が思いつめた様子で宿から姿を消した時は、随分と心配したものだ。
ローラと二人でスラーヴァを必死に探したことが、つい昨日のことのように思い出される。

――盾となって、護り続けたい。

ようやく見つけた時、スラーヴァは亡き親友の墓へこう誓った。
力不足かもしれない。でも、そのために人生をも懸ける。
魂の込められたその言葉には、一片の曇りもなかった。

自分たちを守って戦うスラーヴァの背中が、記憶の中から浮かび上がっては重なる。
次々と、キャロラインは仲間たちの姿を順に思い描いていった。

優しく自分を気遣う、ローラの大きな瞳。
ヴィヴィオの、不器用ながらもどこか暖かい励まし。
無茶な鍛錬を繰り返して、何度も潰れかけたシローの拳。
――悪ぃ、またやっちまった。
傷の治療を頼む時、シローはいつもバツが悪そうにあさっての方向を向いていた。
その度に、キャロラインはきつく叱りつけたものだったが……

今になって思う。
盾となることを誓ったスラーヴァと同様、シローも、拳であることを自らへ課したのではないだろうか?
人殺しと罵られ、返り血に濡れようとも。
そうやって仲間を守る道を、彼は選んだのではないか。

それに気付いた時、キャロラインの胸につかえていたものが一気に落ちた。
凍りついていた心が、少しずつ溶けていくのがわかる。

――ああ。どうして忘れていたのだろう。

シローも、ヴィヴィオも。そして、スラーヴァも。
自分以外の誰かのために怒り、体を張ることができる男たちだ。
そんな彼らにくらべ、何と自分の小さかったことか。

いつの間にか、キャロラインは急いで支度を始めていた。
普段使っている薬や医療道具を、手早く鞄へと詰めこんでいく。
その心に、たった一つの誓いを込めて。

――待っててね、ローラ、スラーヴァ。必ず、助けてあげるから。

固い決意とともに、鞄の蓋を閉じる。
緊張をほぐすために大きく深呼吸をすると、そのまま玄関へと急いだ。
もう彼らはいないだろう。しかし、たった一人でもやらなければいけない。
それが、彼女ができるせめてもの償いだった。

外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
まずはどこに行こうか考えを巡らせるキャロラインのすぐ横から、聞き慣れた声が響く。
「……遅いぞ」
驚いて振り向くと、そこにはとうに教会を出たはずの二人の姿があった。
「シローさん、ヴィヴィオくん。私……」
胸に湧き上る罪悪感と自己嫌悪。
思わず俯き加減となったキャロラインを、ヴィヴィオが促す。
「いいから、行こうぜ。時間がねぇんだ」
何事も無かったかの如く、さりげない彼の言葉。
自分をもう一度信じてくれたこと。それが何よりも嬉しかった。
深い感謝とともに、力強い頷きで返す。

「――行きましょう」

もう、どこにも迷いは無かった。


〔執筆者あとがき〕

この第8話と、続く第9話は、私のキャラクターであるスラーヴァの過去と、それににまつわる因縁を軸に物語を作っています。
ファンブラーズの冒険を小説にしようと思った時から、いつか書こうと思っていた話ではあるのですが……ヴィヴィオのエピソードと並んであまりに設定が重いため、これを表に出すことに少なからず不安もありました。
できるだけギャップを感じさせないよう、当時はゲームの中でもそういった雰囲気を覗かせてみたりと、結構気を遣った記憶があります。
その甲斐あってか、発表後の感触は思ったよりも好評で、書き手・プレイヤーとしては随分と安堵したものでした。

本編の方は、今までに小出しにしていた伏線が次々と姿を現し、ここで大きな山場を迎えようとしています。
それらがどう実を結んでいくのか、そしてファンブラーズの運命はどうなってしまうのか。

――その答えは、次の後編にて。