“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)

第6話
因果は焔とともに(前編)
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/06


1.白い霧の村 5.闇からの視線
2.忘却の深淵 6.乱れる波動
3.荒れ狂う灼熱 7.彷徨える真実
4.幻影・喪失・因果
〔執筆者あとがき〕


1.白い霧の村

――いつから、自分たちは迷っていたのだろう?
地図を眺めながら、ローラは珍しく慌てていた。

「ええっとぉ……ここの道を辿ってきたはずだからぁ。
 今はきっと、このあたりのはずなんですけどぉ……」

近くに磁場でもあるのだろうか、手の中のコンパスは針を回転させ続けている。
太陽を道標にしようとも、空は雲に隙間無く覆われ、光は地上へと届かない。
さらに、周囲は一面に深い霧がたちこめている。視界は極めて悪かった。
方角がまったく確認できないのでは、地図の専門家といえど迷わない方がおかしい。

「ごめんなさいですぅ。わたしがついていながらぁ……」

現在地の割り出しを断念し、申し訳なさそうに仲間たちの顔を見る。
地図製作者としての矜持が傷付けられた悔しさもあるが、そればかりに拘ってパーティ全体を危険に晒すわけにはいかない。
じきに日も暮れるだろう。その前に、次の行動を決めなくてはならないのだ。

「ローラのせいじゃないよ。この霧じゃあ、仕方ないさ」
スラーヴァが、彼女を励ますように微笑してみせる。
いつものことだが、彼は滅多に仲間を責めたりはしない。スラーヴァだけでなく、それは“手探りで進む者たち”全員に言えることである。
後に続き、シローも肩をすくめながら口を開いた。
「そういうことだ。……しかし、ここまで深い霧は珍しいな」

現在ローラたちがいるのは、大陸の北部から北西へと広がるナタナエル地方である。
火の精霊の影響を強く受けるこの地域は年間を通して気温が高く、湿度は低い。
そもそも、こんな場所で霧が出るはずもないのだ。

「……ん?」
「どうしたんですか?」
ふと、周囲を見渡していたシローが声をあげる。
首を傾げるキャロラインに、彼はある方向を指差した。
「村があるな」
目を向けると、そこには確かに村があった。
白い霧の中、数軒の家々と、畑を囲む柵などが浮かび上がって見える。
再び地図へと視線を落とし、頭を捻るローラ。

「おかしいですねぇ。この近くに村はないはずなんですけどぉ」
「また、この前みたいに死人どもが出てくるんじゃねーだろうな」
「や、やめてよヴィヴィオくん」
ヴィヴィオがぽつりと漏らした呟きに、キャロラインが狼狽する。

つい先日、五人はとても奇妙な体験をした。
ギルドの依頼を受け、道路状況の調査のため西隣のナベリウス地方へと赴いた時のことだ。
旅の途中で立ち寄った、地図に載っていない村。
そこで待ち受けていたのは、彷徨える死人たちの群れだったのだ。
魔術には、死者の魂と肉体を操る禁忌の技が存在する。
道を外れた魔術師が、村を実験場としてそれを実践していたのかもしれない。
その禍禍しい儀式を彼らは目撃し、戦いの末それを阻止した。
敗れた死霊使いの男は自ら生み出した闇へと呑まれ、後に残ったのは静寂のみ。
真実は誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは、あのような事を考えるのは一人とは限らないことだ。
事実、冒険者ギルドでも似たような話はいくらでも聞いたことがある。
前方に見える村が、その一つでないという確証はどこにもなかった。

「さて、どうする?」
シローの問いに、少しの間考えこむスラーヴァ。
ややあって、彼は仲間を見渡して言った。
「とりあえず、行ってみた方がいいんじゃないかな。
 地図に載っていないからといって、あの時の村と同じとは限らないしね。
 ……このまま夜を迎えるよりは、危険が少ないはずだ」

周辺は一面の荒地で、危険な生物も多い。
見通しのきかない状態での野営は、避けたいところであった。
未知の危険よりも、予測し得る危険を考慮すべきだろう。
「だな」
シローも、スラーヴァの意見に賛同の意を示し頷いた。
それを聞き、ローラも安堵の吐息を漏らす。
ここのところ、でこぼこの地面での野宿には辟易していたのだ。
「そうですねぇ。やっぱり屋根のあるところで眠りたいですしぃ」
「お化け……出ないよね」
さっきのヴィヴィオの言葉が余程響いたのが、不安げな表情のキャロライン。
もともと、その手の話には人一倍弱い。
先日も死人たちを前にして恐慌状態へと陥り、色々と大変な事態になったものだ。
それを思い出し、彼女を落ち着かせようと言葉をかける。
「もし出ても、魔法でお払いすれば大丈夫ですよぅ」
「う……うん」

死者を操る魔法もあれば、退ける魔法もある。
『死霊払い』の神聖魔法がそれで、神官の資格を持つスラーヴァとキャロラインは使うことができた。
落ち着いて対処さえすれば、死霊とてそう恐れることはない。
一行が村へ向けて出発しようとしたその時、ヴィヴィオが急に足を止めた。

「ヴィヴィオくん? どうかしたんですかぁ?」
靴紐でもほどけたのだろうかと、彼の方を振り向く。
ヴィヴィオは、眉間に深く皺を寄せ、俯きながら呟いた。
「なあ……やっぱりやめようぜ」
声に、いつものような元気が無い。
「何だ? お前も怖いのか」
からかうような調子のシローに、どこか切羽詰った表情でヴィヴィオが顔を上げる。
「そんなんじゃねーよ。何だかイヤな感じがしやがるんだ」
「気のせいだろ」
「……嫌なものは嫌なんだよっ! 俺は絶対に行かないからなっ!」
鬼気迫る彼の様子に、思わず全員が沈黙した。
普段ならば、不平は漏らしても我侭を言って仲間を困らせるような彼ではない。
それが、今は駄々をこねる子供のように叫んでいる。

ローラ達が困惑する中、雨の雫がまばらに地面を濡らしはじめた。
「あ……雨ですぅ……」
「また、いきなり降ってきたな」
瞬く間に、雨脚は強まっていく。
動こうとしないヴィヴィオに、スラーヴァは気遣うように声をかけた。
「濡れて風邪でもひいたら大変だ。
 ヴィヴィオ、ここは一旦雨宿りに行こう。天気が落ち着いたら、また考えるから」

なおも渋っていた様子のヴィヴィオだったが、やがて諦めたように言葉を吐く。
「ち……どーなっても知らねえぞ! 勝手にしやがれ!」
そのまま、彼は重い足取りで最後尾を歩きはじめた。

2.忘却の深淵

驟雨に濡れたその村は、どこまでも閑寂としていた。
いや――正確には、元は村であった場所というべきか。
家屋は朽廃して久しく、壊れた柵に囲まれた畑は荒れ果てている。
人が住まなくなってから、相当の年月が経過しているであろうことが窺えた。

既に雨は止んでいたが、空は相変わらず薄暗く、それが荒涼とした雰囲気をより一層深めている。

「人が住んでいないからぁ、地図にも載っていなかったんでしょうかねぇ」
「でも、どうして人がいなくなったのかな?」
歩きながら、ぽつりと呟くローラにキャロラインが問う。
やはり怖いのか、不安げな表情でぴったりと後をついて来ていた。
「さあ……どうしてでしょうねぇ?」
首を傾げながら、考えこむローラ。
さりげなく周囲を警戒していたシローが、代わりに答えた。
「……盗賊か何かに襲われたんじゃないか」
「え?」
少女たちが顔を向けると、彼は近くにある家の壁を指差した。
「あちこちに、剣や槍の傷が残ってる。昔、ここで戦いがあったんだろうな」
シローが指した方向を辿ると、確かにいくつもの傷が残されている。
固いもので削られ、鋭いもので突かれた痕跡。
もし、彼が言うようにこの村がそれで滅びたのならば。
住人は一体どうなってしまったのだろう。
逃げのびることが出来たのか、あるいは――
「……」
ローラはキャロラインと顔を見合わせて沈黙した。
どうやら、彼女も同じ考えに至ったらしい。

「――ヴィヴィオ?」
スラーヴァの声に、ふとそちらの方を見る。
最後尾を歩いていたヴィヴィオが、四人から少し離れた場所で立ち止まっていた。
彼の前には、一本の木。
太くはり出した枝に腐ったロープが二本、結びつけられており、片方の先端には朽ちた木切れが垂れ下がっている。
それは、ブランコのなれの果てだった。
滴り落ちる雨の雫が、もう子供を乗せることのない遊具の寂しさを際立たせる。
ヴィヴィオは呆然とそれを眺めていたが、声をかけられて我に返ったように振り向いた。
足早にこちらへ歩み寄り、俯き加減に呟く。

「……いや、何でもねえよ」
「ああいうのが恋しい年頃か?」
「るせー! てめーは黙ってろ!」
シローの軽口に、逆上して怒鳴るヴィヴィオ。
何かに怯えているようにも見える、余裕のない表情。
普段とは異なる彼の反応に、シローも眉を少し動かしたきり沈黙する。

その後も、ヴィヴィオは少し進むたびに足を止め、村にあるものを見つめていた。
ローラたちは彼の様子に訝しがったが、それを追求しようとする者は一人もいない。
ようやく泊まるのに良さそうな大きめの家を発見し、腰を落ち着かせた頃には、既に日が落ちようとしていた。

「この天気だ、また雨が降ってこないとも限らない。
 今日は、この家を借りることにしようか」
スラーヴァはそう言うと、安全を確かめるために家の奥へと向かっていった。
比較的程度が良いとはいえ、長年放置されていた廃屋であることには違いない。
朽ちて穴のあきかけた木の壁を一瞥し、シローが肩をすくめた。
「……まあ、野宿よりはなんぼかマシってとこだな」
軽い口調でぼやきつつ、スラーヴァの後に続く。
ローラも彼について行こうとしたその時、ヴィヴィオが重い声で呟いた。
「――なあ」
「はい? どうしたんですかぁ?」
「何か、聞こえねぇか?」
耳を澄ましてみたが、周囲は気味が悪いほどの静寂に包まれている。
聞こえてくるのは微かな隙間風と、屋根から雨粒が滴り落ちる音だけであった。
「? 特にぃ、何も聞こえませんけどぉ?」
彼女がそう答えると、ヴィヴィオは苛立ったように眉根を寄せた。
「良く聞けよ。ほら、遠くから赤ん坊の泣き声みたいなのが……」
「やだ。……だからやめてよ、そういうの」
「……」
彼が自分たちを脅かそうとしているとでも感じたのだろう。
怯えた声をあげるキャロラインに、不機嫌な様子で黙りこむヴィヴィオ。
「――おい、泊まるならこっちの部屋の方がいいぞ。
 そこ、天井が少し腐ってるからな」
そんな三人に、隣の部屋からシローが声をかけてくる。
「あ、はぁい」
ローラは返事をすると、キャロラインとともにそちらへ向かった。


「また、霧が深くなってきましたねぇ……」
壊れた窓から外の様子を窺いつつ、溜息をつくローラ。
「明日は晴れるといいんだけどね」
スラーヴァも、苦笑して彼女に応じた。
普段身に纏っている重い金属鎧を傍らに置き、部屋の一角で壁にもたれかかっている。
同じく、鎧を脱いでいたシローが、大きく伸びをしながら言った。
「まあ、こればかりは焦っても仕方ないだろ」

「そういえば、ヴィヴィオくんは?」
キャロラインの声に振り向くと、確かに彼の姿だけが見当たらない。
さっき、部屋から出ていったような気もするのだが……。
「外に小便でも行ったんだろ」
「……シローさん、下品」
「他に何て言えってんだよ」
そんなやりとりに軽く吹き出しつつ、ローラはふと首を傾げた。
先ほどのヴィヴィオの言葉が、どうも気にかかる。
「でもぉ……お手洗いにしては、少し遅くないですかぁ?」
彼女の言葉に、スラーヴァも表情を曇らせた。
「そういえば、少し様子が変だったね」
「この前、頭打ったからなあ……あいつ」
冗談めかして呟くシローを、やや非難がましい目でスラーヴァが見る。
「お願いだから、もうあんな事はしないでくれよ。見てるこっちが心臓に悪い」
例の一件で、ヴィヴィオは恐怖に我を失ったキャロラインに殴られ、少しの間気を失ってしまったことがあった。
混乱の中、さらなる死霊たちの襲撃があり、やむなくシローが彼を抱えたまま戦っていたのだが……。
その間、ヴィヴィオの身体がどんな扱いを受けていたのかは、ローラは決して本人には話すまいと心に決めている。
よくもまあ、無事だったものだ。

――そういえば、彼の態度に変化が現れ始めたのは、あの時に目を覚ましてからではなかったか?
まさか本当に打ち所が悪かったのでは、と不穏な考えが頭をよぎった時、彼女は周囲の異変に気付いた。
より一層濃さを増した霧。それが、室内を埋め尽くそうとしている。
「何……これ」
キャロラインの呟きが、白く染まる視界の中に吸いこまれていった。


その頃、ヴィヴィオは霧のたちこめる村を走っていた。
あの赤ん坊の声が、耳から離れないのだ。
何かがおかしい。歯車が徐々に狂いはじめている。
ここに来てから――いや、あの村で儀式を目撃した時から。
正体のわからない、どす黒い闇が、心の奥底から滲み出して止まらない。

壊れたブランコ。朽ちて扉もないパン屋の店先。石ころだらけの広場。
荒れ果てたこの村の全てが、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。
物心ついた時、ヴィヴィオにはすでに家族も故郷もなかった。
それらは失われたと聞いていたし、特に疑問に思ったこともない。
しかし、自分はとても大切なことを忘れているのではないだろうか?
立ち止まるたびに頭の疼きは増し――そして、赤子の泣き声を耳にした。
意識を支配したのは、呼ばれているという確信。
我に返った時には、もう仲間のもとを飛び出していた。

泣き声は、徐々に大きくなっていく。
深い霧が視界を完全に遮ろうとも、ヴィヴィオは全く迷わなかった。

――そうだ。俺は、この道を知ってる。

やがて、彼はそこへと辿りついた。
青い屋根、端が少し欠けた煙突。ひびの入った壁。

――俺の家だ。

沈んでいたものが浮かび上がるように、次々と蘇りつつある記憶に翻弄されながらも、ヴィヴィオはそれを疑いはしなかった。
暖かくも残酷に意識へと訴えかけてくる――我が家の匂いと感触。
そう。この村こそが、ヴィヴィオの失われた故郷だったのだ。

泣き声は、家の中から聞こえてくる。
導かれるように、彼は中へと足を踏み入れていった。

3.荒れ狂う灼熱

扉は、懐かしい軋みとともに開いた。
足を踏み入れると、手狭ながらも埃一つない玄関。
壁には、母親が趣味で作った押し花が額に飾られている。

短い廊下の奥と右手に、また扉。
その右手の扉の向こうから、赤子をあやす声が泣き声に混じって聞こえた。
パンの焼ける匂いが、鼻腔をくすぐる。

――落ち着け。これが現実であるはずがない。

あまりに不自然で、甘美な誘惑。
ヴィヴィオの理性は、必死に警告を発していた。
この扉を開けてはならない。開けたら、きっと取り返しがつかなくなる――
しかし、裏腹に彼の手は扉の取っ手へと伸びていく。
絶対にあり得ない。しかし――万が一、それが扉の向こうにあれば。

鼓動が高鳴り、頭はさらに強く疼く。
思い出したくない。見たくはない。でも――もう一度だけ。
渦巻く葛藤。やがてそれは激しい目眩と変わり、ヴィヴィオを襲う。

とうとう、彼は扉を開けた。
隙間からランプの光が漏れ、眩しさに一瞬目を細める。
煮立った鍋からはスープの香りが漂い、食卓には焼きたてのパンが並んでいた。
眠っていた記憶を呼び覚ますように、それらは鮮明に五感へと訴えかけてくる。

ヴィヴィオはゆっくりと視線を巡らし――ある一点で、それを止めた。
エプロン姿の、金髪の女性。
見覚えのある後姿が振り向き、自分に向けてにこりと笑う。
柔らかく暖かい笑顔を前に、ただ凍りつくヴィヴィオ。
母の姿をしたものは、おぼろげな思い出と同じ声で優しく言葉をかけてくる。

――あら、遅かったのね。

危険だ。一刻も早く、ここから立ち去らなければ――
ヴィヴィオの意に反して、足は一歩もその場から動こうとしない。

――どこまで遊びに行ってたんだ?

そんな彼に、さらにもう一つの声。

――心配かけちゃ駄目だろう。もうお兄ちゃんになったんだから。

食卓に座る人影。子供の頃、頼りにして一生懸命にしがみついた父の背中が、そこにあった。

「母さん……父さん……?」
後退り、呆然と呟く。
かつて失い、忘却の彼方に葬られた暖かさを前に、理性が揺らいだ。
湧き出してくる甘い希望を、ヴィヴィオは必死に否定しようとする。
どうあっても、死者が蘇るはずは無いのだ。
彼らが、ここにいて自分に笑いかけるなど。そんな事が、あってはいけない。

――嘘だ。

食卓の傍ら、揺れるゆりかごの中。
生まれて間も無い弟が、元気な泣き声をあげている。

――あらあら、まだ泣き止まないのね。

母が、食事の支度の手を止めて弟を抱く。

――嘘だ。

父が、立ち尽くすヴィヴィオを見て首を傾げる。

――そんな所に立ってないで、座れよ。もう、晩御飯の時間だ。

そう笑いかけて、空いている椅子を引く。

――嘘だ!

母が、抱いた弟をヴィヴィオの方へと向ける。

――ほら、お兄ちゃんが帰ってきましたよ……。

弟が、碧く小さな双眸でヴィヴィオを見つめる……

「やめろ! 俺にそんなものを見せるんじゃねえ!」

耐え切れず、叫んだその時。
壁紙をはがすように、周囲の風景が一変した。
和やかな団欒は一瞬にして色褪せ、そこにあったはずの家族は同じ場所、同じ姿勢を保ったまま一切の表情を失う。
あんなにも優しかった瞳にもはや光はなく、ぽっかりとした闇が眼窩におさまるばかりだった。

「ひっ……!!」

何ものも存在しない、虚ろな双眸。生気のない、青白い肌。
そのまま、家族の形をしたものたちは近づいてくる。

「あ……う」

恐ろしい。身体の奥から、熱いものがうねりとともにこみ上げた。
前にも確か、こんなことがあった気がする。
頭の中を激しく掻き回される不快感。ざわめく衝動。
それが頂点へと達した時、ヴィヴィオの視界は紅蓮に染まった。
「う……あああああああああああああ――っ!!」
絶叫とともに、灼熱の嵐が巻き熾る。
吹き上げる焔が瞬く間に部屋全体を覆い尽くし、家族を容赦なく呑み込んでいく。
父が、母が、弟が。
自分の生み出した火炎地獄へと消えゆくのを、ヴィヴィオは目の当たりにした。

――違う……違うんだ。

強大な力に翻弄され、ヴィヴィオの小柄な身体が小刻みに震える。
それでもなお、彼は黒い塊へと変化していく家族の姿から目を離せなかった。
無限の闇を湛えた三対の双眸は、なおもこちらへ向けられていたのだ。

やがて、再び訪れる静寂。
周囲には、一面の焦土が広がっていた。
青い屋根の家も、家族も、もうどこにも見当たらない。

――ここには何も無かったはずじゃないか。十年前の、あの日からずっと。

激しい頭痛と目眩。堪らず、ヴィヴィオは嘔吐した。
気が遠くなりそうなのを必死で踏み止まり、ふらつきながらも前に進もうとする。
暴走の余波が、彼の気力と体力を根こそぎ奪い取っていた。
あまりの忌まわしさに、自ら封印していた記憶の蓋。
それが今、音を立てて開こうとしている。

4.幻影・喪失・因果

視界は純白に覆われ、仲間の顔すら見ることができない。
隣で震えるキャロラインの肩に、ローラはそっと手を置いた。
「ちっ、何が起こってやがる」
「二人とも下がって。ローラ、キャロラインを頼む」
霧の中から、シローとスラーヴァの声が聞こえてくる。
返事を返し、キャロラインを伴ってゆっくりと後退するローラ。

二人が手探りで壁まで辿りついた時、変化は起った。
部屋を埋め尽くした霧が渦巻きながら集束し、二つに分かれていく。
視界が晴れていくと同時に、それらは人の形を成し始めた。

「何が来ようと関係ねえ。この武甲オサフネの錆に――」
利き腕に愛用の手甲を装着し、臨戦体勢を整えるシロー。
自分の前に立ちはだかったものを不敵に睥睨し――表情が凍った。
「てめえは……」
目を大きく見開き、そのまま呆然と立ち尽くす。
彼の視線の先。そこには、少年の姿があった。
褐色の肌に金髪、血のような紅い瞳――歳は、ローラと同じくらいだろうか。
手には剣を構え、感情の篭らない双眸には静かな殺気を湛えている。
人形のように瞬き一つせず、彼はシローを見据えて歩み寄ろうとしていた。
――どうして、今更。
シローの微かな呟きが、ローラの耳に届く。
彼の拳は、小刻みに震えていた。
その隙をつき、精巧な機械を思わせる動きで間合いへと踏みこむ少年。
喉元を狙った突きを、シローは手甲で辛うじて受け流した。
やはり、反応が遅い。彼ならば、あの程度の攻撃はわけなく捌けるはず。
訝る暇もなく、今度はスラーヴァの悲痛な呟きが聞こえてきた。

「あ……」
彼の前には、長身の逞しい青年。
茶色がかった短い黒髪に縁取られた精悍な顔立ちが、どこかシローに似ている。
腰に、見覚えのある剣の鞘が見えた。
「――グレン? 君……なのか……?」
呆然と呟くスラーヴァの手に、同じ剣の鞘が握られている。
だとすると――あの青年は彼の亡き親友にして剣の所有者、グレンに他ならない。
剣の柄に手をかけることもできないスラーヴァに向け、抜刀するグレン。
スラーヴァの手に合わせて打ち直される前のシャムシール。
その大振りな刀身が、突如旋風と化した。
「うあっ!?」
とっさに身をかわし、斬撃から逃れるスラーヴァ。
キャロラインが蒼白な顔で叫ぶ。
「スラーヴァ!」
「グレン……何をするんだ……?」
彼に答えることなく、グレンはさらに攻撃を浴びせてくる。
疾風迅雷の連撃から身を守るため、スラーヴァもやむなく剣を抜いた。
それでもなお、受け流しきれない。
鎧のない彼の全身に、赤い線を引いた浅い傷がいくつも刻まれていく。
「くっ!」
防戦一方に追い込まれながら、悲愴な叫びを搾り出すスラーヴァ。
「やめてくれ、グレン! 俺は、君と戦いたくない!!」

一方、シローも少年を前に苦戦していた。
スラーヴァ同様、鎧を脱いでいたために傷を負っている。
左肩と右の頬が、流れる血で赤く染まっていた。
「――全く……しつこい野郎だな」
舌打ちとともに、敵を睨む。
自分自身を鼓舞するように、彼は腹の底から声を絞り出していた。
「こうなったら、もう一度地獄に叩き落してやる! 死ねぇ!」
修羅の如き苛烈さで攻勢に回ろうとするシローだったが、悪夢の如く、打ち出す拳は少年の身体を空しく通り抜けていく。
咆哮とともに、ひたすら殴り続けるシローの様子からは、普段の余裕はまったく感じられない。

「一体、何が起こってるの!?」
「まずは落ち着きましょう、キャロラインちゃん」
怯えるキャロラインを、力強く励まそうとするローラ。
彼らの窮地を救えるのは自分たちの他にいないのだ。
ここでパニックに陥ってはならない。
「人、なの? それともお化け……?」
僅かに震えるキャロラインの問いに、ローラは必死に考えを巡らせる。
「たぶん、違うと思いますぅ。ええと、確かあれはぁ……」
魔法の勉強を始めようと、冒険の合間に読み進めていた本。
その中に、これと似た記述がなかったか。

思い出そうと記憶を辿ろうとしたその時、鋭い銀色の煌きが二人のもとへ飛来してきた。
「――きゃあ!」
悲鳴とともに身をかがめたキャロラインの傍らをかすめ、壁にぶつかる。
スラーヴァの剣が澄んだ音を立てて足元の床に落ち、緩く回転を続けていた。
前方から、武器を失った彼の叫びが耳を打つ。
「く……すまない! 二人とも逃げてくれ!」
そのスラーヴァを、グレンはなおも執拗に追いつづける。
このままでは、やられるのも時間の問題だろう。
「そんな……」
キャロラインが絶望的な表情で呟いた瞬間、ローラの脳裏に閃くものがあった。
「!! ――あれですよぅ、キャロラインちゃん!」
「? え?」
「『死霊払い』の魔法! あれが効くはずですぅ!」
「??」
目を丸くするキャロラインに、興奮してまくしたてる。
もはや一刻の猶予も無い。
「理由はあとで話しますからぁ! とにかくお願いしますぅ!」
「う、うん」
呼吸とともに気を落ち着かせ、キャロラインは可愛らしい声で聖句を唱えた。
『――光よ、導きを!』
彼女の両の掌からまばゆい光が溢れ、部屋を優しく照らす。
その輝きに包まれて徐々に輪郭を失い、無へと還っていくグレンと少年の姿。
後には、傷付き憔悴した二人の仲間が残った。
「――スラーヴァ、シローさん。大丈夫ですかぁ?」
「ごめん、助かったよ……ありがとう」
気遣って声をかけるローラに、か細い声でスラーヴァが答える。
顔の白さは、出血のせいだけではあるまい。
「……ああ」
頷きを返したシローも、その表情はどこまでも暗かった。

「結局、どういうことだったの?」
彼らの手当てを始めながら、キャロラインが訳のわからない様子でローラに問いかける。
「たぶんですけどぉ……あの霧ってぇ、霊体の一種だと思うんですぅ。
 それでぇ、たぶん亡くなった人の形を借りてたんじゃないでしょうかぁ?」
「形を……借りる?」
「ええ、ご本人じゃないと思いますよぉ。
 本でこの前読んだんですぅ。人の心を覗いてぇ、
 過去に失ったものの姿を見せて襲う霧の話。
 わたしとキャロラインちゃんはぁ、身近に亡くなった人がいないのでぇ、
 影響を受けなかったんじゃないかと思いますぅ」
精霊が織り成す世界の法則は奥深く、人間の精神や魂にまでその影響は及ぶ。
それを応用して心を操ったり、幻覚を見せたりする魔法も存在し、使いようによっては、単純な攻撃魔法よりも余程効果的に敵を追い詰めることができるのだ。
「……そういうことか」
苦々しい呟きとともに、苛立った様子で壁に拳を叩きつけるシロー。
手甲の一撃が、朽ちかけた木材を易々と砕いてめり込む。
「シローさん……」
「――嫌なことを思い出しただけだ」
驚いて顔を上げるキャロラインに、横を向いたままシローが呟く。
スラーヴァが未だ白い顔のまま、感情を押し殺した口調で言った。
「……あの霧が本体だとすると、この村全体がその影響にあるということだね」
「そういうことに……なりますねぇ。
 その本にはぁ、精霊力の乱れがこういう現象を生む場合があるって、
 書いてありましたよぉ」
自然の法則から外れたものが生じる原因は大きく分けて二つ。
人為的に生み出されるか、精霊力の狂いから偶然に生まれるか。
異変の規模が大きければ大きいほど、後者の可能性が大きくなる。
ここ数年、大陸全土に広がりつつある精霊力の乱れ。
各地で見られる怪現象の根底には、その脅威が脈々と流れているのだ。
「ヴィヴィオが危ない。体勢が整ったら、すぐに探しに行こう。
 場合によっては、この霧の原因も探さないといけない」
「そうですねぇ。これだけ範囲が広いですからぁ、
 村のどこかにぃ、源になるものが必ずあると思いますぅ」
たとえ偶然の産物としても、大きな変化には何かのきっかけが必要となることが多い。
それを見つけ出すことができれば、この村を覆う霧の謎を解き明かすことも可能なはずだ。

この場にいないヴィヴィオの身を案じ、ローラは無意識に両手を握り締めていた。

5.闇からの視線

自らの荒い息と鼓動が、どこまでも追いかけてくる錯覚。
気を抜けば途端に薄れゆく意識を、ヴィヴィオは死に物狂いで繋ぎとめていた。
焦土と化した大地からは、未だに熱気が燻り続けている。
熱さを孕んだ風がヴィヴィオの肌を撫ぜ、彼の内にある灼熱の衝動を再び刺激した。

ここにいてはいけない――

こみ上げるものを押し殺し、ふらつきながらも踵を返す。
逃げるように、ヴィヴィオは走り出していた。

青い屋根の家。優しかった両親。生まれたばかりだった弟。
その全ては失われた――いや、違う……

――やめろ! 思い出したくない!

灼熱の焔。呑みこまれる家族。肉の焦げる音と匂い。炭化して崩れ落ち、灰も残らない……人だったもの。
激しい頭痛と、明滅する意識。
どこまでが現実で、どこまでが幻覚なのか、ヴィヴィオにはもう判断がつかなかった。
この村は、何故滅んだ? 何故、家族は死なねばならなかった?

幼かったあの日。
夕暮れまで遊び続け、家に戻った自分。
食卓には両親と暖かい食事。ゆりかごからは弟の泣き声――ありふれた家族の団欒を壊したのは、突如現れた盗賊の一団だった。
平穏な村を瞬く間に地獄絵図に塗り替えながら、突き進む略奪と殺戮の嵐。それが、ヴィヴィオの家に辿り着いたのだ。

震えながら、自分と弟を抱きしめる母。その腕の中で泣き続ける弟。
見たこともない怖い顔をして、盗賊たちの前に立ち塞がった父。
そして、襲い来る暴力。
よってたかって叩き伏せられ、踏みにじられる父に振り下ろされる盗賊の剣。それに重なる、母の絶叫。何もできず、恐怖に塗りつぶされる自分。

記憶は、ここで途切れていた。
再び、激しい目眩。白い霧が、ヴィヴィオの眼前をゆるやかに通り過ぎる。
顔を上げると、そこには悪夢があった。

「あ……」

あれほど濃かったはずの霧はいずこかへ消え去り、代わりにいくつもの人影が現れていた。
どこか見覚えのある――幼い頃に出会った、ここの住人たち。
そして、武器を手に彼らに襲いかかる、盗賊たちの姿。
剣や槍に貫かれ、次々に血の海に沈んでいく人々。
死したはずの彼らの顔が、地に伏したままヴィヴィオの方を向く。

生命、家族、財産――全てを奪われた、憎しみを込めて。
がらんどうの闇と化した双眸。その全てが、無言で自分を睨んでいた。

「違う! 俺が殺したんじゃない!」

――そう。俺は殺しちゃいない。俺が、殺したのは――

脳裏にゆらめく、紅蓮の幻影。
全身が、焼けつくように熱くなった。

「あ……ああああ……!!」

内なる焔の激流が、ヴィヴィオの身体を通して外界へ溢れ出そうとする。
忘れていた――いや、見て見ぬふりをしようとしていた、残酷な真実とともに。

意識が灼熱に支配されかけたその時、周囲を光が包んだ。
村人と盗賊の姿は輝きの中で消え、同時に、燻る熱も急速に勢いを失っていく。
呪縛から解放されたかのように、ヴィヴィオはその場に倒れ気絶した。


聞き慣れた涼やかな声が、自分を呼んでいる。
ゆっくりと目を開くと、心配そうなスラーヴァの顔があった。
「気がついたかい?」
「――スラーヴァ」
「君を探してたんだ。間に合って良かった」
安堵に胸を撫で下ろすスラーヴァ。
傍らにいる他の仲間たちも、倒れたヴィヴィオを覗きこんでいた。
「……離れろ」
焔の幻覚が脳裏にゆらめく。浮かんできたのは、怖れ。
――巻きこみたくはない。
「ヴィヴィオ?」
「俺に近寄るな!」
怪訝そうに問いかけるスラーヴァの手を、怒鳴り声とともに払いのける。
そのヴィヴィオの胸倉を、シローが掴んだ。
鋭い視線とともに、平手打ちが二発、頬に重く響く。
「きゃあ、ヴィヴィオくん!?」
「シローさん!」
「――目が覚めたか? いいから落ち着け」
少女たちの悲鳴に構う事なく、厳しい表情で言い放つシロー。
口の中に広がる血の味が、ヴィヴィオの意識を覚醒へと導いた。
「……すまねえ、どうかしてた」
「本当に、どうしちゃったんですかぁ?」
途方に暮れたように問いかけるローラの方を向こうともせず、そっけなく答える。
「大した事じゃねえよ」
「でもぉ」
「何でもねえって言ってるだろ!」
語気を荒げて吐き捨てた後、罪悪感と後悔が襲う。
それでも、彼は仲間の目を見ることができなかった。

6.乱れる波動

ずしりと重い静寂がのしかかってくる。誰一人、口を開こうともしない。
あの後、何とか落ち着きを取り戻したヴィヴィオに事情を説明し、霧を生み出した原因を探るために村を探索することになった。
相変わらずヴィヴィオは口を噤んだままだったが、いざ出発すると率先してパーティの前に立って先導し、これもまた皆を驚かせた。

離れている間、調査を行っていたのだろうか。それとも……?
近寄り難い雰囲気を漂わせている彼の背中へ、問う者はいなかった。
一様に無言で、ヴィヴィオに付いて歩いていく。

やがて、一行は村外れの一軒家へと辿り着いた。

「……何かあるとしたら、多分ここしかねえ」

確信を込めて言い放ち、家に入っていくヴィヴィオ。
軽く首を傾げつつも後に続き、扉をくぐると、そこはかつてないほど濃密な霧に埋め尽くされていた。
「ふえ……」
「くそっ、またか」
次々に声を上げるローラとシロー。
スラーヴァが、背後のキャロラインに声をかける。
「キャロライン」
「は、はい」
多少規模は大きくとも、原理が同じならば『死霊払い』の魔法は有効なはずだ。
声を揃えて、二人は聖句を唱える。
『――導いて、光よ!』
『聖なる光よ、彷徨えるものに導きを』
光が放たれた箇所から霧が晴れていき、室内の様子を明らかにしていく。
源になるものがすぐ近くにあるためか、霧は完全には消えず、薄い乳白色の帯となって残った。
放っておけば再び霧へと変化するかもしれないが、少なくともしばらく時間を稼ぐことはできるだろう。
「邪魔者は消えたな。じゃあ、家捜しといくか」
「この家……冒険者さんが住んでいたんですねぇ」
部屋をぐるりと見渡し、ローラは一瞬状況も忘れて感興の声をあげた。
不思議な形をした石や、凝った装飾の短剣、古びた鏡など。
冒険で持ちかえったと思われる品々が、所狭しと並べられている。
「なるほど、こりゃあいかにも、だな」
角に積まれた木箱の中身をまさぐりつつ、シローが呟く。
確かに、精霊力や魔力を帯びた品物の在り処としてはうってつけの場所だ。
村の端に位置するためか、戦いの手もここまでは及ばなかったらしい。
他者に荒らされた形跡がないのは、探索にはむしろ好都合だった。

ローラが、壁の飾り棚に手をかけようとした時、隣のキャロラインが声をかけてきた。
「ねえ……何だか息苦しくない?」
「言われてみればぁ……そうですねぇ」
苦痛を伴うわけではないが、どこか圧迫感がある。
身体の内側がざわつく感触が、神経に障って不快だった。
その言葉に、スラーヴァが眉を顰める。
「たぶん、このあたり一帯の精霊力が乱れているんだ。
 あまり長くいると、危険かもしれない。無理せず、具合が悪くなったら順に外に出よう」
かつて彼の仲間であったグレンは、体内の精霊力のバランスを崩して命を落としたと聞いている。
先ほどの一件も心に影を落としているのだろう。
スラーヴァの表情と口調には、未だ深い愁いが込められていた。

彼の言葉に従い、こまめに休憩を挟みながら捜索を続けていた五人だったが、手がかりは一向に見つからない。
各々の表情に、焦慮の色が段々と濃くなっていく。
「見つからないね……」
キャロラインが、疲弊しきった表情で呟いた。
もう、時間にして深夜に近い。
緊張の連続であったこともあり、疲労もピークに達してきているのだろう。
程度の差はあれど、ローラも似たようなものだ。
「ここでぇ、間違いはないと思うんですけどぉ……」
そう言いながら、机の引出しの一番下に手をかける。
やはり疲れているのか、勢い余って取っ手を思いきり引いてしまい、飛び出してきた引出しごと後ろに尻餅をついてしまった。
「大丈夫? ローラ」
「いたた……はいぃ、大丈夫ですぅ……」
お尻をさすりながら立ち上がろうとしたその時、箱のなくなった引出しの奥に、淡く輝く光が見えた。
慌てて覗きこむと、そこには小さな宝石。
「! もしかしてぇ……これ、ですかぁ?」
ローラの声に、他の場所を探していた仲間たちも集まってきた。
「――たぶん、間違いないな。嫌な感じがこっちまで届いてきやがる」
乳白色の光を放つ宝石を一瞥し、眉間に皺を寄せるシロー。
彼の言う通り、先ほどからの圧迫感が一段と増してきている。
宝石を取ろうとローラが手を伸ばしかけたその時、ヴィヴィオの叱責が飛んだ。
「――触るな!」
驚いて手を引っ込めると、かつてないほど厳しい表情をした彼の姿。
「直接触るんじゃねぇ。何が起るかわかんねぇんだぞ!」
「ヴィヴィオくん……」
「どいてろ、ローラ!」
ヴィヴィオは手近にあった大きめの石を取り上げると、ローラを押しのけて彼女の前に出た。
そのまま、宝石へと石を叩きつける。
「こんな……こんなものが……っ!!」
憑かれたように、何度も石を振り下ろすヴィヴィオ。
宝石が砕け、原形をとどめない小さな破片になっても、まだ彼はそれをやめようとしなかった。
鬼気迫る彼の形相に、ローラもキャロラインもただ見守るしかない。

「そのへんにしとけ。――もう、充分だ」
シローが、ヴィヴィオの肩を軽く叩いた。
弾かれるように振り返り、彼の顔を見上げるヴィヴィオ。
ヴィヴィオの双眸は何かに怯えるように大きく見開かれ、流れる冷汗が全身を濡らしている。
荒い息のまま、彼はしばらく無言のままシローを見つめていた。

ローラがふと窓に視線を向けると、あれほど濃かった霧が嘘のように消えている。
いつの間に晴れていたのか、漆黒の空には星が瞬いていた。

7.彷徨える真実

一夜が明け、五人は再び街道を歩いていた。
霧の消滅とともにコンパスも方角を正しく指し示すようになり、ローラの案内で元来た道へと戻ることができたのだ。

昨日の天気がまるで嘘のように、空は青く澄み渡り、清々しい初夏の風が吹き抜けていく。

しかし、ヴィヴィオの心は独り、闇の中へと取り残されていた。

死霊の村での一件、故郷での出来事。
ここ半月ほどの間に、色々なことが起こりすぎている。

かねてよりの目標とし、密かに勉強を続けてきた錬金術を何とか自分のものとしたのも、ついこないだだった。
遂に極意を得ることができた時の高揚感は、もう心のどこにも見当たらない。

錬金術師を志した最初の理由を、完全に思い出したからだ。
漠然と抱いていた願い。錬金術がそれを叶えてくれるのではないかという、ほのかな希望の裏に秘められた残酷な自らの身勝手さを、ヴィヴィオは悟ってしまった。

村で得た記憶が、真実であるという確証はどこにもない。
できれば、嘘であって欲しいとも思う。
しかし、否定しようと思えば思うほど――内なる声が騒ぐのだ。
目を逸らすな、認めろと。

村外れに住んでいた冒険者。
冒険の合間に村へ帰ってくる彼を、幼い自分は毎日のように訪ねていた。
旅から帰るたびに増えていく冒険譚と戦利品の数々に、憧れと好奇心を抱いて。

そして、あの日。
彼が持ち帰った品物にまぎれて、それはあった。
神秘的な輝きを放つ宝石を手に、はしゃいでいた自分。
それが、精霊力を乱す魔石であるなどとは夢にも思わず……

全てが幻であると思うには、あらゆる事実が整然と結びつきすぎてはいないだろうか?

あまりの忌まわしさに、自ら封印していた過去。
永遠に思い出したくなかった、でも、決して逃げることのできない事実。
がらんどうの闇と化した無数の双眸を向ける死者たちの幻影とともに、それはこれからもヴィヴィオを苛むのだろう。
身体には、焔が未だ燻り続けている。

気を遣ってくれているのだろう。
仲間たちは、誰一人として余計な口をきこうとはしなかった。
いつもはうるさいくらいの少女たちも、心優しい青年も、からかい半分に軽口を叩いてくる戦士も。
皆、沈黙を保っている。
それは有難いことであり、そして途方もなく辛いことだ。

誰かに、言って欲しかった。
力強く、頷いて欲しかった。

――何も心配は要らないのだと。自分は、何も奪ってはいないのだと。

しかし、そんな救いは訪れないであろうことをヴィヴィオは知っている。
何故なら、自分は既に知ってしまったから。
それでもなお、彼はありもしない希望を求めてあがいていた。

失ったもの。奪ったもの。壊したもの。殺したもの。
生命の重さ。生きることの意味。魂。死霊。宿命。輪廻。

すべてが思考の渦と化し、複雑にうねる。
そして、辿り着くのはいつも、無限へ墜ちてゆく闇の中だった。


出口のない迷宮の中を彷徨いながら、一時の休息を求めて、ヴィヴィオはフロースパーへと歩き続ける。
そこで、さらに残酷な運命が待ち受けていることを、彼はまだ気付かなかった。

因果は、焔とともに魂を焦がす――


〔執筆者あとがき〕

今回から2話に渡り、ヴィヴィオが主役のエピソードです。
パーティ最年少である彼ですが、実は誰よりも重く辛い過去を抱えています。
過酷な宿命にヴィヴィオが如何に立ち向かうのか。それを受け止め、仲間たちが何を思うのか。
彼本人は勿論のこと、ファンブラーズ全体にとっても、これは今後の大きなテーマとなっていくでしょう。

――まずは、この次の後編にて、その一部をご覧ください。