ファンタジーな100のお題
シロー連作1
73 来訪者
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/05


来訪者
〔執筆者あとがき〕


来訪者

母が死んで、もう三ヶ月になる。
幼い頃に父を亡くしてからというもの、母子二人の慎ましい生活だった。
わずかな遺品の整理を終えた後、十六歳のリンファンに残されたのはこの小さな家だけ。
ずっと狭いと思い続けていた部屋も、一人になると空虚な広さを感じる。

幸い多少の貯えはあったし、自らも針子として働いているため、食べていくのに不自由はない。
しかし、ぽっかりとあいた空白はそうそう埋められるはずもなかった。

その日も、彼女は仕事が休みなのをいいことに昼近くまでベッドでまどろんでいた。
叱る者がいないと、どうにも生活のリズムが崩れていけない。
同時に、休日だからといって特にやりたいことも見つからないのもまた事実だった。

カーテン越しに差し込む、春の麗らかな日差し。
その清々しさを前にしても、つきまとう冬の匂いは簡単には消せない。

完全に目が覚めた後も、しばらく惰性に任せて横になっていたのだったが、そのうち強い空腹感を覚えてきた。
何もしなくとも、身体は正直にエネルギーを求めるものらしい。
苦笑しつつ、のろのろと上体を起こして身支度を整える。

遅い朝食の準備に取りかかるものの、やはり自分一人の食卓を思うといまいち身が入らない。
簡単に済ませてしまおうか、と考えを巡らせた時、ふと、猫の鳴き声が聞こえてきた。
どうやらまだ仔猫らしく、声は小さくか細い。その姿を想像し、思わず笑みがこぼれる。
幼い頃に猫を飼っていた記憶が、亡き母の暖かい思い出とともに蘇った。

声は家のすぐ裏手から聞こえてくる。
猫がどこかに行ってしまわないうちに一目その姿を見ようと、リンファンは思いきって外に出ることにした。
場合によっては、猫と一緒に食事をするのも悪くはない。

一転して心を弾ませながら裏の路地を覗きこんだ彼女は、そこに予想外の人影を認めて足を止めた。

二十歳前後の青年。不揃いな長さの黒髪を首の後ろで括り、腰には剣を帯びている。
砂埃で薄汚れた革鎧を纏っていることから、地元の自警団員ではなく、おそらくは冒険者なのだろう。
路地の隅に腰を下ろし、家の壁に寄りかかる彼の膝の上から、猫の声は聞こえていた。
小さな小さな、虎縞の猫。
青年が手にする猫じゃらしの動きに合わせて、楽しげに前足を動かしている。

戦士と猫。どこか不釣合いなその組み合わせが、この光景に奇妙な微笑ましさを添えていた。

「……何の用だ」
ぴたりと猫じゃらしを止め、青年がぽつりと問う。
猫と戯れているところを見られた羞恥心からか、顔がぎこちなく強張っている。
悪戯を見咎められた子供をも思わせる表情に、リンファンは思わず笑みをこぼしていた。

「用も何も……ここは私の家なんだけど?
 猫の声がしたから、気になって見に来ただけ」
「そうか、それは悪かったな」
憮然として、素っ気無く言葉を返す青年。
「その子、あなたの猫?」
「いや」
「親猫はどうしたのかな」
「知らん。気がついたら、勝手についてきてた」
彼はそう言ってリンファンから目を逸らしたが、その膝には仔猫がしきりに頭を摺り寄せていた。
遊びを中断され、構ってもらいたくて仕方がないらしい。
「野良のわりに、随分と懐いてるのね」
「こっちはいい迷惑だ」
「本当に?」
「……うるさい女だな」

――嘘の下手な人だ。
語気を荒げつつ、ぷいと横を向く青年の様子を見て、リンファンは思う。
その時、仔猫が物欲しげに一声鳴いた。
ひょっとしたら空腹なのだろうか。そう思った彼女の脳裏に、ふと名案が閃く。

「ちょっと待っててくれる?」
リンファンは青年に言い残すと、一旦家の中へと戻った。
そして、そのままになっていた食事の支度を再開する。
自分以外のために料理をするのは、随分と久し振りではないだろうか。
そんな事を思いながら、彼女は思いがけない来訪者に感謝する。
――独りよりは、大勢の方が楽しい。


程なくして彼女が戻った時、一人と一匹はまだその場に佇んでいた。
「はい、これ」
小さなバスケットを手渡すリンファン。
中には、野菜とハムのサンドイッチが二人分。それと、茹でてほぐした鶏肉が詰まっている。
「?」
訝しげに眉を寄せる青年に、彼女は笑って答えた。
「お腹空かせているんでしょう? その子も、あなたも」
「……こいつと俺を一緒にするな」
言いながらも、手は素直にバスケットに伸びている。
どうやら図星だったらしい。
まず鶏肉を猫に与えると、自らもサンドイッチへとかぶりつく。
リンファンもようやく食事に取りかかりつつ、しばらく様子を眺めていたが、ふと、ぽつりと言葉を漏らした。

「その子、私が引き取ってあげてもいいよ」
「あ?」
唐突な申し出に、青年が驚いたように顔を上げる。
そんな彼へ、リンファンは悪戯っぽく笑いかけた。
「私、猫は好きだし。それに、あなたは育てるつもりはないんでしょ?」
「誰がそんな事言った」
どことなく落ちつかない様子の彼に、内心で微笑するリンファン。
少なくとも、猫に懐かれて迷惑だという人間のとる態度ではない。
自分より歳上であろうこの戦士を、彼女は何故かからかってみたくなった。
「仮にそうするにしても、旅に連れていくのは無理なんじゃない? ねえ、冒険者さん」
彼はしばらく眉間に皺を寄せて考えこんでいたが、やがて小さく舌打ちして横を向く。

「……好きにしろ」
「ありがとう」
礼を言い、拗ねたように猫を差し出す彼の手から、それを受け取る。
幼い毛皮の、柔らかく暖かい感触が彼女の掌に広がった。
丸い瞳で自分を見つめる猫に微笑みかけながら、さらに青年に問う。

「この子、名前はある?」
「そんな大層なものあるか。“トラ”で充分だ」
「トラ?」
「北にいる珍しい動物だ。知らないのか」
自らの発言が前後で矛盾していることに、彼は果たして気付いているだろうか。
笑ってしまいそうになるのを堪えつつ、リンファンは確認するように言った。
「つまり、あなたはそう呼んでたわけね」
「……」
しまった、とでも言いたげに口を噤む青年。
単純に頭が回らなかったのか、根が正直なのか――おそらくは両方だろう。
顔をそむける彼に、猫がどこか寂しげに声をあげる。

「いつでも会いに来ていいのよ。この子も、その方が喜ぶだろうし」
「馬鹿言うな。俺はそいつがどうなろうと知ったこっちゃない」

青年は苛立った口調とともに振り向いたが、自分を真っ直ぐ見つめる丸い瞳に、慌てて目を逸らした。
そのまま軽く舌打ちし、早口に言う。
「でも、飯の礼もあるからな。いずれ、また寄らせてもらう」
どこまでも素直じゃない。
今は、何故かそれが微笑ましくも感じられた。
「それは構わないけど、名前も知らない人に訪ねてこられても困るな。
 私はリンファン・フェイ・ルース」
「……シロー・オサフネだ」
己の不利を悟ったのか、半ば諦めたように青年が名乗り返す。
「それじゃあ、シロー。トラと一緒に待ってるわ」
仏頂面で横を向く彼に、満面の笑顔でリンファンが言う。
母の死から止まっていた時間。それが動き出すのを、彼女はこの時感じていた。


〔執筆者あとがき〕

シローと、彼の恋人であるリンファンの物語を綴った連作。
今回は第一弾として、二人の出会いを描いてみました。

当時シロー十九歳、リンファン十六歳。
本来ならばまだ初々しさが前面に出てくるべき年齢なのでしょうが、何と言いますか、この二人に関してはあまり変化がないように思えます。
あるいは、これがお互いにとって最も心地よい接し方であるというだけなのかもしれません。

ともあれ、このエピソードをきっかけに交際が始まったわけです。
“猫の育ての親と現在の飼い主”という建前ではあったものの、この時からお互いに感じるものはあったのでしょう。
やがて二人は恋人同士となり、一年が過ぎたころには一緒に暮らすようになったのですが……。

――次の話は、そのあたりを語ってみようかと思います。