ファンタジーな100のお題
76 聖域
AkiRa(E-No.633PL)作
2004/03


聖域
〔執筆者あとがき〕


聖域

結婚を間近に控えたある日、千歳のもとへ懐かしい来客があった。
藤原静香――現在は嫁ぎ先である『長船(おさふね)』の姓を名乗る女性。
千歳にとって、七つ年上の彼女は頼りになる姉も同然の存在だった。

四年ほど前、静香は夫とともに里を出た。
外の世界へ行って、二人で商売を始めるのだと、笑いながら言っていたのを覚えている。
周囲の人間はこぞって反対したが、ただ一人千歳だけは違った。
当人たちが決めたことならば、それで良いではないか。
人生とは、自ら切り拓くものなのだから。

静香はそうやって旅立ち――そして今日、ここへ戻ってきた。
今度は、母親となって。

「こんにちは。お名前は?」

しゃがみこみ、子供の目線に合わせて千歳が問う。
真っ黒な短い髪に、日に焼けた肌が健康的な男の子。
彼は千歳を見て屈託無く笑うと、大きな声で元気良く答えた。

「シロー」
「……こら、ご挨拶は?」
母親が咎めたが、シローは黙ったまま、にこにこと笑っていた。
その笑顔に、千歳の表情がほころぶ。
「いいのよ、可愛い子じゃない。シローちゃんは何歳?」
「みっつ」

またもや、元気良くシローが答える。

「そう……えらいわね、シローちゃん」
微笑しつつ、千歳はシローの頭を優しく撫でた。


春の優しい日差しが、障子の向こうから柔らかに室内を照らす。
その隙間から覗く風景は、どこまでも厳かだ。
精霊と神の住まう場所――神社。
そこに仕えるべき巫女として、千歳はここに嫁ぐことになっている。
約三年に及ぶ修業も大詰めとなり、秋には祝言を挙げることとなっていた。
二十歳の花嫁――まだ、実感は湧いてこない。

「千歳もいよいよ結婚か……あなたなら、きっと良い奥さんになるわね」

千歳が用意した茶と菓子を口にしつつ、静香が感慨深げに言った。

「そんな……私なんて、まだまだよ? いろいろと、覚えることも多いし」
「そうね、神社ともなると大変でしょう」
「ふふ、でも何とかやっていくわ。 ――そういえば、ご主人はどうなさったの?」
「長船の実家よ。色々と面倒そうだったから、逃げてきちゃった」

くすりと、顔を見合わせて笑う二人。
反対を押し切り、家出同然に里を出たのだから今頃大騒ぎになっている筈だ。

「それにしても……子供かあ。いいわね、私も欲しいな」
「結婚したら、きっとすぐよ。あなただったら、結構な子沢山になったりして」
「そうかもしれないわ。私、子供は好きだもの」

千歳の言葉に微笑を返すと、静香は障子の隙間から外の様子を窺った。
ふと、その表情が翳る。
「……志郎?」
「シローちゃん?」
立ち上がり、障子を開け外を見る千歳。
さっきまでそこで遊んでいたはずの、シローの姿がどこにも見あたらなかった。

「あの子ったら、いくら言ってもきかないのよ。
 じっとしている事ができないのね。一体誰に似たのかしら?」
「さあ? でも、男の子はそれくらい元気な方がいいわ」

微笑みながら、縁側から外に出る千歳。静香も、それに倣った。

「私はこちらを探すから、静香姉さんはそちらをお願いね」
「ええ、ごめんなさいね」
「ううん、いいのよ」
踵を返し、千歳はシローを探して境内の奥へと進んでいった。


「シローちゃん、どこにいるの?」
名前を呼びながら、千歳はシローの姿を探す。
このあたりは特に危険なものは無いが、豊かな森は子供の好奇心を煽るだろう。
思わず深く踏み込んでしまい、道に迷うことはあるかもしれない。

風が優しく木々の枝を揺らす。ふと頭上を見上げた千歳は、そこにシローを見つけて驚いた。
あの小さな体でどうやって登ったのだろうか。太い木の枝に腰掛け、高くから遠くを見つめている。

「シローちゃん」
下から、そっと声をかける千歳。あまり驚かせては、その拍子に落ちてしまうかもしれない。
彼女の心配をよそに、シローは視線を千歳へと移した。特に高所を恐れている様子もなく、再びにっと笑う。

「そんな所にいると危ないわ……下りてらっしゃい」
「だいじょーぶ」

シローは明るくそう答えると、再び遠くへと目をやる。幼い瞳が、きらきらと輝いていた。

「――何が見えるの? シローちゃん」
「んー、そらとか、やまとか」
「楽しい?」
「うん」

風が、再び木々を微かに揺らしてゆく。
千歳には、それが風の精霊たちの笑い声とも思えた。

「……ぼく、たびする」
「旅?」
「うん、おっきくなったら」
「どこに行くの?」
「ぜんぶ!」

迷いなく答えるシロー。
なるほど、確かにこの子には旅が似合うかもしれない。
一つの場所に留まることなく、絶えず流れ続ける風。
彼は、そんな印象を人に与える子供だった。

対する自分は水。
穏やかに流れつつも、いずれ同じ場所へと辿りつき巡る。
きっと、一生この里を出ることはないのだろう。
千歳には、少しだけシローが羨ましかった。

考え事をしていたのは一瞬だったが、その隙にシローは枝から姿を消していた。
見ると、幹にしがみついてゆっくり木を下りてこようとしている。
まだ幼いというのに、その動きは意外にも敏捷だった。

千歳は内心はらはらしつつ様子を見守っていたが、シローは確実に進み、ほとんど地上へと近づいてきている。
もう大丈夫かな、と思ったその時、彼の体が木から滑り落ちた。
「あいて」
「シローちゃん……大丈夫?」
急いで様子を見たが、幸い怪我はないようだ。
シローは立ちあがり千歳を見上げると、やや涙目になって言う。

「……ぼく、ないてない」

その強がりがいじらしく、千歳は彼の頭を撫でた。
「そうね、シローちゃんはこんなことじゃ泣かないわよね」
「ん」

涙と鼻水を飲みこみつつ、シローが大きく頷く。
その腕を、千歳はそっと手にとった。

「――帰りましょう。お母さんが待っているわ?」
「ん」
最後に一回鼻をすすりあげた後、笑顔に戻って答えるシロー。
指先から伝わる子供特有の体温が心地よい。

この子はこの先、どんな道を進んでいくのだろう?
そんなことを考えながら、千歳はまだ見ぬ自らの子供に思いを馳せていた。

――嫁ぐ日はもう、すぐそこまで来ている。


〔執筆者あとがき〕

隠れ里に伝わる秘法により、未だ二十代の若さを保ち続けている巫女・千歳さん。
これは、彼女の外見と実年齢がまだ一致していた二十歳の頃のエピソードです。

隠れ里繋がりということで、当時三歳のシローも登場させてみたのですが……時の流れって残酷ですね。
どこをどうひねくれたら、ああ育ってしまうというのでしょう。

ちなみにこの二十一年後、千歳さんはシローと再会を果たすこととなります。
シローは彼女のことを覚えてはいたのですが、子供の頃に会ったきりの女性と同一人物という事実を悟った瞬間、かなり混乱したようです。
以後、彼は千歳さんを“妖怪”と忌み嫌うようになってしまったのですが……それもまた、無理からぬことかもしれません。